第2節 駿河・遠江両国の熊野三山の荘園
 それでは次に熊野三山と駿河・遠江とは、歴史上どのような関係があったかを見ることにしよう。
 院政時代から戦国時代までほぼ400年の間、経済的にも政治的にも駿遠両国は熊野権現と濃密な関係にあったのである。
駿遠両国には熊野の荘園が多かった
 表によると、平安時代以降、熊野三山領の荘園が両国に散在していたのである。
駿河・遠江両国の熊野3山領(吉川弘文館「国史大辞典」より 1部転載)
所在地
名称
成立年
備 考
遠江
 敷地郡

上野郷内

永禄10(1567)

那智 今川氏真寄進

 城東郡

峯田郡

永正14(1517)
駿河国万疋荘の替地
那智 井伊千代寿寄進
(郡末詳)
 
山之荘
 土橋郷

永禄12(1569)

那智 徳川家康寄進
駿河
 有度郡
 安部郡
 

長田荘
足洗荘
服織荘

嘉吉元(1441)
正治2(1200)
元享2(1322)

那智
本宮
新宮

安東荘
貞和2(1346)
那智

万疋荘
弘治2(1556)
那智 今川氏真寄進
 このうち、前に記したように鳥羽天皇皇后の美福門院が寄進した長田荘は、那智大社の領するところで、数ある熊野三山の荘園のうちでも伝統あるものだった。
 そればかりではない。足洗荘、服織荘、安東荘、万疋荘(所在は不明)など、竜爪山の麓近くに数多くの熊野三山領が立地していたのである。
 安東荘にあたる静岡市安東一丁目には、今日でも熊野神社が鎮座している。駿河国新風土記は、古くはここは大社で社人や社僧も多くいた、と記している。那智山文書に収められている文書の一つには、この熊野神社の造営に要する材木の伐り出しの費用や建築費、竣工式のさいに配ったらしい餅やかわらけ(祝い酒用だろう)の経費などが記載されている。
 熊野三山の荘園は吉川弘文館発行の国史大辞典によれば、成立年次が明かなものだけで、全国に約60ヵ所を数える。このうち、熊野三山が鎮座する地元の紀伊に20ヵ所と多いのは当然だが、駿遠両国の8ヵ所がこれに次いでいる。
 鎌倉時代以降、神領や荘園が武士に押領されるようになると、熊野三山は社殿の造営や修理の費用に事欠き、朝廷や将軍にこれら費用の支弁を要請するようになる。
 たとえば、「熊野山新宮御造営御代々目録」によると、新宮(速玉大社)の本社建設のために歴代の上皇が駿遠の荘園を造営経費負担の荘園に指定している。
後三条院
二条院
四条院
御醍醐帝
延久4
平治年間
仁治2
延慶4
造国駿河
造国遠江
造国遠江
造国安房・遠江

 このほかにも三山からの奏請を受けた後光厳天皇の命令により、将軍足利義詮は遠江を速玉大社の造営料所として交付しているし、その後も遠江守護の今川範国が、遠江国衙の一部と横山村(現存の天竜市)一円を速玉大社に与えている。
 学者によっては、駿遠両国は熊野三山と海運で結ばれていたとする説を唱えているし、より具体的には年貢を熊野三山に運ぶために駿遠両国に荘園を置いたと推定する学者もいる。というのも、天正年間には遠江国から切米を熊野に運ぶ遠江船があり、駿遠両国の年貢が海路で輸送されていたからである。
今川氏も熊野権現と深い関わりがあった
 足利宗家やその分葉の今川氏は熊野と密接に関わった。これは信仰のみでなく、新宮の神官鈴木氏が持つ水軍を味方に引き寄せようとする政治的な意向もあったからである。
 今川義元は戦場に赴くたびに、速玉大社に領地を寄進したり、幣帛を供えたりしている。また、駿河の安東荘をめぐる争いが生じたときには、安東荘に安堵状を発行している。
 今川氏は熊野三山とは荘園のみならず、人的にも結びつきが強かった。
 京都一の観光スポット「哲学の道」の起点にある熊野若王子神社は、後白河上皇の勧請であるが、これを管理する乗々院の別当には江戸時代初期、澄存が任命された。彼は今川氏真と北条氏康の娘の子である。
 澄存はのちに熊野三山奉行に任ぜられ、全国の山伏を掌握する最高の地位に上る。そして、この職から引退するさい、後任をやはり彼の血緑の中から選んでいる。
 父の氏真も万疋荘に代えて、遠江の入野郷の一部を那智大社領としている。戦国時代、各地の荘園が武士によって侵奪されてゆくなかで、安東荘と長田荘は那智大社にとって年貢を確保できる数少ない貴重な荘園となっていた。
 また、応仁の乱の勃発する応仁元年(1467)、足利義政は若王子社で花見の宴を開き、引出物として駿河国門谷郷を同社に与えている。
 遠江国では武士ばかりでなく、井伊千代寿が城東郡峯田郷の年貢の一部を、那智大社に祈祷料として寄進している。庶民にまで拡大した熊野信仰を思わせる。
 後白河上皇は35回の熊野御幸をしているが、上皇は全国28ヵ所の荘園を、京都の熊野信仰の拠点だった新熊野神社に寄付していて、この中に遠江国羽島荘の名がある。
 那智山文書によると、今川氏が最花銭(おさい銭である)二百貫を毎年のように船で熊野に送っている。
 荘園としてはこのほか、京都の新熊野社所有の荘園の中に駿河国由谷郷や遠江国河回荘(現在の浜松市の一部)などの名が見えている。
 また、熊野本宮大社の神領として土橋(山名郡)のほかに同じ山名郡の松袋井、木原の名がある。
 しかし、上に述べたように、戦国時代以降、熊野三山の駿遠両国内の荘園は、戦国乱世の中で武士の領国に取り込まれ、年貢の徴収もままならず、ついには戦国大名の所有するところとなる。
 そして、このあと江戸時代までに、熊野三山は全国に所有していた荘園をすべて失う。
 慶長6年(1601)に、ときの紀州の領主浅野幸長と忠吉が、本宮大社と那智大社に社領としてそれぞれ三百石を、速玉大社に三百五十石を寄進する。これが明治4年まで続くのである。熊野三山の極盛期には、この幾層倍もの広大な社領があったと推定されている。
 駿遠両国においてかつて熊野の荘園が存在した事実は人々の脳裏から消え去るのである。
 なお、熊野三山は、このあと紀州出身の徳川吉宗が8代将軍に就任すると、彼に懇願し、幕府の権威を後ろ盾に金融業にその活路を見出すのである。