このような駿遠両国と熊野三山との関係を背景に、龍爪山が駿河国における熊野の霊山と見なされるようになる。荘園には熊野神社が勧請され、大勢の神人や社僧たちをはじめ、荘園の事務をとる荘司や雑掌などという人たちが居住していた。農民や大工、手工業者もいた。御師と呼ばれる山伏たちの姿もその中にあった。
彼らが龍爪山を熊野権現の神霊の宿る聖なる山と見ていたであろうことは容易に想像される。龍爪権現を扱う論文は、古くから何らかの祭祀施設が龍爪山上にあったことを指摘している。
龍爪山の怪異として語られる話には、天狗にまつわるものが多い。これもこの山で山伏が修行をしていたことを物語る。神倉山の天狗の噂と軌を一にする。
静岡市安東の熊野神社
現在の本殿奥にある多くの杉の巨樹は、明らかにこの地がかつて禁伐の地であったことを示している。明治43年発行の西奈村経済調査書(龍爪山のある平山はかつて西奈村平山であった)によると、これらの巨樹は樹齢800年から900年と推定されている。約1100年前のものである。まさに熊野三山が上皇はじめ京都の貴族の関心を集め始めた頃である。
ところで、再び城北高校「ピオレの会」のレポートを引用すると、彼女らは「安東の熊野神社の地は龍爪山を望む格好の地であった、と想像される」と書いた。女子高生の感性は鋭い。龍爪山と熊野権現との関わりなどまったく知らぬままに、的確に両者の歴史の深いつながりをついている。なるほど駿府城趾に近い同社を訪れてみると、本殿に向かって右側の木立の向こうに、龍爪山の姿がはっきりと遠望できる。
私の住む清水市草薙近くにも二社の熊野神社が鎮座する。そのいずれもが、龍爪山を正面に見はるかす場所に立地している。ことによると、これら熊野神社は龍爪山の遥拝所であったかも知れない。
それでは、龍爪山には熊野権現信仰を思わせるようなものがあるのだろうか。これを次に書こう。
まず、龍爪山には丁石がある。古今萬記録によれば、安永9年(1780)に瀬名村の名主が36本を寄付したとある。
同様のものが、熊野街道にも多く立っている。中辺路が通る中辺路町内でも卒塔婆をかたどった町石が本宮までの間、約三百町に建立されていた。一町ごとに町数を刻んである。今日でも九十九王子のうち大門王子、大坂本王子、箸折峠や中辺路の交通の要所である近露王子、伏拝王子などに残っている。これらは12世紀初めには立てられていたと、このころ熊野詣をした貴族の日記に記録が残されている。
熊野三山への道(「熊野三山信仰事典」から作成)
龍爪山の丁石
熊野三山へ向かう道は、図のように現在の田辺市から分かれて山中を通る中辺路(この道は熊野山伏が踏み固めた道である)と海岸に沿う大辺路があるが、ほかにもう一つ小辺路がある。
小辺路は空海の開いた高野山から熊野本宮に至る道をいうのであり、高野山へ到るためのみの道ではない。
安永9年に寄付された龍爪山の丁石は、高野山の町石を模したものではあるが、高野山なるがゆえの町石ではない。
高野山の町石も高野山単独のものでなく、あくまでも熊野三山に到るための道に置かれているのである。
町石は熊野と伊勢神宮や東海道を結ぶ東熊野街道にも置かれた。
この街道は念願の伊勢参宮を果たした人々が、巡礼姿に姿を替えて熊野三山を、さらには西国三十三番札所を廻るために通った道だった。
その東熊野街道の最大の難所が尾鷲市の八鬼山である。かつては山賊や狼が出現し、旅人を震えあがらせたという。
八鬼山の町石は尾鷲市から頂上までの石畳におおわれた道の五十町にある。地蔵尊が彫られている。やはり、一町ごとに一体、すなわち50体が置かれた、現在は33体が残っている。
そして、この道には八鬼山荒神堂があって三宝荒神が安置されている。修験者が祀ったと言い伝えられている。
水垢離と埋経の類似
丁石ばかりではない。龍爪山の旧道にある垢離取り場は、名前のとおりここで水垢離をとって龍爪権現を参拝したのである。滝があって滝壷がわりに大きかった。現在は下流に砂防ダムが造られ、土砂が推積して昔の面影はない。
垢離取り場
これもまた、熊野三山にならったものである。熊野詣をする人々は、後白河法皇建立の京都熊野若王子神社の滝(これは那智の滝を模したものである)に打たれて水垢離をとり、それから淀川を大阪に下った。
平安時代、花山法皇は那智の滝に打たれ、修行をしたと伝えられていることは前にも述べた。そして、西国三十三番の観音霊場巡礼はその花山法皇に始まるという。その巡礼が那智の滝に隣接する青岸渡寺が第一番であることはよく知られているが、これも那智の滝籠もりによるみそぎがこの寺にあったことから始まったと推定されている。
寛文縁起には、権兵衛の神がかりを両親が水垢離を取って、その平癒を諸仏神に祈ったと書かれている。これも熊野三山の水垢離の伝統を踏まえているのである。
また、明治24年の大洪水により流失する以前、熊野本宮では旧本宮前の音無川を徒歩で渡った。これは川を渡渉することが
そのまま水垢離取りとなるものであり、貴賎男女を問わず、危険を冒し向こう岸から渡された一本の綱を頼りに渡り切り、本
宮を参拝したという。神社の垣を瑞 垣というが、これはもともと「水垣」であったといわれている。つまり、水で作られた境
界としての垣根である。
神社に詣でる人々が水の垣根を渡るということは、それがそのまま水垢離になることを意味するからである。那智の滝の滝修行が水垢離であることはいうまでもあるまい。
龍爪山と熊野三山との類似はまだある。私は未見だが、龍爪山には「一字一石経」というものがあって、一つの石に経文の文字を記したもので、それらを納めて経塚にしたというのである。
石ではないが、埋経の風は新宮の神倉山にもあった。経塚遺跡が発見されている。ここはすでに指摘したように神倉修験の修行地であって、埋経を依頼された山伏が壇那に代わって経を埋め、壇那の現世利益や後生安楽を祈ったところである。
那智にも滝本近くの、その名も金経門というところに新宮と同じく埋経跡がある.
牛の生首と祈雨
最後にもう一つ。西奈村誌は「龍爪神異」として、次のような怪異談を記している。
「昔、夜中に人目を忍んで牛の生首を境内に置き、逃げ帰る者があると必ず暴風雨になるという。雨は、毎日降り続いて止まず、牛の生首が流失するまで降る。これは祈雨というべきだろうが、多くは空米売買の連中がする不正手段である。
今から50年前には、このようなことがたびたびあった。しかし、近年はまったくなくなった(以下略)」とある。
空米で儲けるために雨が降るような天候不順を祈り、米の生産を左右させようとする不心得者の仕業だと西奈村誌はいっているのである。
また、静岡市の浅畑沼の話としても似た話が伝わっており、沼に牛の頭を沈めて雨乞いすれば、たちまち雨が降る。ただし、このことは人に話してはいけない。人が知ると雨は降らない、という。類似の話はまだ他にもある。ある古書には、「雨乞いのとき、農民は牛頭を携えて龍爪山に登り、山上に埋めて祭るときは雨が降る」と書いている。
現在でも、平山地区ではこの牛に関するタブーが残っており、牛肉を食べない人もいるという。戦時中、牛肉を、除隊するまでとうとう口にしなかったという人もいた。
穂積神社境内を通る東海自然歩道のわきで、牛肉を材料にバーベキューをしていたハイカーたちが、突然の雷鳴と豪雨に悲鳴を上げて社務所に逃げ込んだという話は、平成に入ってからのことである。
穂積神社の神橋が、平山地区内を流れる長尾川にかかるが、ここを牛が通ると雨が降る、そればかりか鳥居近くまで牛が行けば豪雨になるという言い伝えが昭和の初めまで残っていた。
牛の生首をもって雨を祈る風習は、やはり熊野地方にもあった。
和歌山県西牟婁郡白浜町の富田がそれで、昔は富田村といった。その大字庄川に牛尾谷という滝がある。滝の奥に洞穴があり、干ばつのときはここに牛の生首を置いて藤葛で堅く結び、後をも見ずに立ち帰る。すると雨が降る。これをこの地方の人々は「牛の首をつける」という。
この奇習は、大正初めにもまだ行われていたことが報告されている。
富田村もかつて熊野那智大社領であった。この風習は龍爪山がまだ熊野権現信仰の山であったころ、熊野の関係者が持ち込んだ可能性が高いといえるだろう。
牛に関連して、「熊野速玉大社古文書古記録」には次のような熊野三山神官名の文書が残っている。明治3年9月の文書で、牛馬使用を奨励する趣旨のものである。それによると、「和歌山県藤代から東の郡や村では、いつの頃からかわからないが、牛に荷を負わせることをしない。それは熊野大神宮を憚るからだという。しかし、神宮ではそんな禁制はしていない。考えるに、中昔に仏法混合したとき僧侶などが禁じたのだろう」とある。そして、これからは、そのような風習は改めなければならない、と諭している。
神仏分離のさいに発行された文章だが、このような通達が改めて出されること自体が、江戸時代にはこの熊野地方で牛をタブーとしていたことを物語っている。