第1節 山と人の関わりの変遷
 静岡、清水市民にとって、龍爪山は見慣れた山である。山の姿は、見る位置によって千変万化するが、龍爪山もその例にもれず、清水側から見た山容と静岡側から見た山容とでは大きく異なる。この龍爪山の峯から続く山脚が、静岡、清水平野の山麓線を形成している。麓に住む人々は、セドヤマ・ミネヤマの稜線を辿っていけば、龍爪山の高みに自然と目が行く眺めの体験を繰り返してきたのである。古くから龍爪山と対することによって、知らず知らずの間に、影響を受けてきたのである。故郷を離れた人が、龍爪山と名前を聞いただけで山の姿が思い出されたという、懐かしい山である。かつて、龍爪山と人々は、どんなつながりをもって結びついていたのだろうか。暮らしの中の自然の象徴が、龍爪山であった。生活と自然との交渉が、龍爪山の恵みに集約されてきたといえよう。龍爪山の歴史は、山と人と神仏との交渉史であった。
 龍爪山の歴史的変遷は、おおまかにいって宗教的土地利用から生業的土地利用への方向で、変化してきたと捉えることができるだろう。禁足地としての聖地が、麓に暮らす農民たちによって徐々に侵食され、俗なる空間になってきたということである。この聖から俗への山の開発が、徹底的に行なわれてきたのが龍爪山であった。
 そのことは、大正9年発行の5万分の1地形図「清水」に表記された土地利用や植生を見ることによって明らかである。大正5年修正とあり、近代の龍爪山の状態を読み取ることができる。それによると、山頂部の2つの峯は、草原の荒地が広がっている。そのまわりに雑木林があり、さらに、下の方から杉、桧の人工林が雑木林の中へ入りこんできた様子を示している。大正時代は、焼畑の方式が稗や粟を目的とする主穀生産型焼畑から植林を目的とする林業前作型焼畑に移行してきた時であった。それとともに、焼畑跡地の茶原化も進展し、龍爪山の麓から高所に向かって茶畑が広がってきたことを示している。また、山麓では蜜柑畑が広がっており、換金作物を山の斜面を利用して栽培する事が時流となってきたことがわかる。
 龍爪山の山頂部が荒地となっていることは、秣場の入会利用地として収奪が激しく、樹木が生えてこなかったことを示している。山頂の聖地が、生活のために利用されてきたことを、荒地の植生が端的に示してくれている。信仰領域の聖と俗を分けていた結界がなくなった結果といえよう。かつて、信仰領域と生業領域が明確に分けられていた時代が龍爪山の山上においてあったと考えられる。
 その事例が、島田市千葉にある天台系の山岳寺院智満寺の在り方である。千葉山という山をめぐって、聖なる信仰領域と俗なる生業領域が明確に区別され、山頂部が聖地として守られている。ちなみに、千葉山もかつて2つの峯からなることが考えられ、雨乞いの段というところに、龍王神を祀ったという。千葉山が雨乞い山であったことを示すものである。
 こうした千葉山、雨乞いの段と智満寺の在り方は、龍爪山の在り方を再現するときの参照になる。
 千葉山の山上には、10本杉の巨木が残されており、人工的な聖地として森が作られてきたことを示している。龍爪山の杉の巨木も同系統の森作りといえよう。このように、山上の山岳寺院を境に、山頂部の山自体を本地仏に見立てた聖なる信仰領域として、薬師岳、文珠岳の山上が霊場として守られていた時代が想定される。それが、近世初期に大きな転換があって、山上の開発が進展してきたといえよう。龍爪山(文珠岳)の頂上が、「雑草生ジ、秣場ナリ」(『千代田村誌』)という龍爪秣場になってきたのである。山上が入会地として利用されてきた歴史が、千葉山の歴史とおおいに異なるところとなった。龍爪秣場は、近世の龍爪山を象徴する土地利用であった。龍爪山からの秣と薪の採取が麓の農民たちの暮らしを支えてきたのである。中世の信仰領域が、暮らしの資材獲得の領域になってきて、山の実利的利用が優先されてきたことを、物語っている。信仰空間から生業空間へ、このことが、龍爪山の山と人の関わりの変節点であった。
 龍爪山秣場の入会地が、いつごろ、どのように形成されてきたのか、その歴史過程や経緯は不明である。入会地をめぐる村々の出入り(争い)は、江戸時代を通じて行われ、明治時代の始めごろになっても、まだ、行われていた。いかに、龍爪山の利用をめぐる社会関係に、複雑な網がかぶさっていたかが、理解されよう。山上の霊場が、俗世界の境界争いにまきこまれてしまった時代であった。
 暮らしの基盤として、龍爪山の利用は重要な意味をもっていた。麓の生業を補完する領域として、農業的土地利用が行われてきた。その代表が焼き畑であった。龍爪山は、現在、全山人工造林の杉林、桧林の観を呈しているが、その前は、2次林の雑木林に覆われていた。この雑木林が、薪炭生産の原料となっていた。清水側の黒川の炭焼は、炭焼き村としての拠点になっていた。このように、山上までの樹木伐採が江戸時代に行われ、その乱開発の結果が、山上の草原化をもたらしてきたといえよう。
 千葉山の山上は、霊場として保護され、龍爪山の山上は、秣場として開発されてきた。信仰の場と生業の場を区別する秩序化が千葉山には働いていたが、龍爪山では働かなかった。ここに、龍爪山の土地利用とその境をめぐっての出入りの激しさの背景があった。山の生業の変遷を押さえることが、山と人の関わりの変遷に密接に繋がっているのである。その意味で、龍爪山は、静岡、清水平野の生業をめぐる民俗空間の中心にあった山として把握される。
 そうした生業を信仰的に裏打ちしてきたのが、生業の安泰を祈る背負い神であった。金山権現は、平山の瀧家の持ち宮であったという(『龍南の古文書』)。このほか、山上の末社には、七社山神(清地の望月家)、大天狗(樽村の望月家)、小天狗(布沢の望月家)、稲荷明神(布沢の瀧家)があったという。また、拝殿には、若宮八幡、地主権現が祀られていたという。七社山神は、山の神を山の各所に祀っていたことを示す名命といえ、龍爪大権現以前の古い神様として祀られていた可能性がある。それは、龍爪山の奥山に山人として暮らしを立てていた人々の、生業神であったといえよう。
 金山権現は、金掘り衆など非農耕民の背負い神が考えられ、安部山は中世の時代、金掘り衆の活躍した領域であった。山金の露頭掘りによる採掘が考えられている。奥山の開発は、山に眠る天然資源の採取が先行する。非農耕民の移動と定住を繰り返すもとに、耕地を作り出し、山の高所に農耕を生業に取り入れた村が作られてくる。竜爪山の開発においても、高所集落の存在が考えられ、山伏など宗教者による霊場開発だけでなかったといえる。
 竜爪山は、南アルプスに連なるブナ林地帯の最南端に位置し、照葉樹林地帯と交わる中に、豊かな山林資源、動物資源を秘めていた山であった。中世の時代、竜爪山の開発が進展し、非農耕民によって生業神が持ち込まれていたといえよう。非農耕民の生業としては、狩猟、山樵、木地師、桧物師、それに金掘りなどが考えられる。竜爪山はブナ林地帯の安倍山の奥山へ入って行く入口に位置している山として、山岳ルートの道筋としても重要であった。竜爪山の「道白さん」に語り継がれてきた牛にまつわる伝承は、かつて牛を使った山中への物資輸送があったことを物語るものといえよう。牛妻の森谷沢の沢奥には、イグチザカと呼ばれる地名があるが、そこはあまりの急坂のあまり、さすがの牛も「イグチをかいた」と伝えている。牛は馬よりも急な坂道を登れるといい、牛妻側から竜爪山へ物資を送り込む東西方向の山道が、古い時代の重要なルートであったことが推定されてくる。牛を使った交易の反映が、道白さんに仕えた牛の使いの物語を生んできたことを考えてみてもよいであろう。山と人の関わりとして、山道の物資輸送に牛が活躍していたことが、竜爪山の歴史のひとこまとして再現されてくる。
 戦国時代の竜爪山は、駿河側の今川氏にとっても甲斐側の武田氏にとっても、金山を確保する安部山支配の戦略上の拠点であったいえよう。若山には狼煙をあげたという伝承があり、竜爪山の鞍部にも、人や物資の移動を見張る山城の配置が考えられている。竜爪山の背後に位置する俵峯、湯島の山村が今川氏にとって重要であったことは、安部山の在地土豪の杉山氏、大村氏を配下に組み込んでいたことからも窺える。『静岡市史中世・近世史料2』におさめられている「大田神五郎宛印判状写」には、「かならず金山へ上げる荷物は五駄で毎月六度、甲州境目は金山の者共を通行止めにしている。このことをよく弁えて、違いがあってはならない。もし、甲州へ通り越えようとしたら、必ず、成敗する」という内容が記されている。天文3年の時期、甲斐と駿河の境が厳しく見張られていたことを示すものである。安部山の国境も、当然、山道の要所要所で人と物資の出入りに目を光らせていたと思われる。
 以上のように、竜爪山と人の関わりの変遷のなかで、安部山および甲州への山道が、竜爪山を出入り口とする山上のスカイラインとしてあったことが提示されよう。この背道が南北をつなぐ交易路として、中世の時代の開発を支えてきたと考えられる。竜爪山の歴史地理として、山岳交通の拠点としての役割を果していたといえよう。また、智者山の別当の高橋氏に金山へ持ち込まれる兵糧の番所の役目が命じられており、宗教者が道を支配していた事例として注目される。こうした事例を踏まえて、竜爪山の宗教者にも道の支配の役割が担わされていたことが、十分、類推されてくる。竜爪山を眺めて、奥山のかなたへ続く道の果てに、思いをいたした時代があったのである。連歌師の宗長は、「跡たれし しつはた山の そのかみの 道のくまなく 聞もかしこし」(『宗長手記』)と詠んでいる。また、今川氏真は「ふりそふも 残るもわかす 甲斐のねは 春日にまけぬ 雪の色かな」と詠んでいる。竜爪山の山の背後に、遠い異境を思っている歌である。
 竜爪山は、異境に繋がる思いを、風景体験として、古くから培ってきた山であった。