龍爪山の山の上への参詣が、何時ごろから始まったかは定かでない。平山には、「室町道」といった古い山道が伝承されており、道白平の五輪塔の年代も、室町時代に比定されている。この事を考え合わせると、中世の後半には、追善供養の参詣に、道白平の山腹あたりまでは入り込んでいたことが、窺える。龍爪山の仏教霊場の場は、谷筋に沿って開発されてきたといえ、山上は奥の院として、一般の人が自由に入れない領域を形成していた時代があったものと思われる。「龍爪山開初ノ事」と題する一書に「龍爪山権現、慶長12年丁未正月12日に初り候。この神は則ち御城の守護神御はたかみにて候。この山と申にて天狗のすみかなれば、おびただしくあれ候。上一里四方へ入り来るも無之候。」とあり(『静岡県庵原郡誌』)、そのことを示している。江戸時代、駿府城本丸で使う炭は龍爪山から出したといい(『駿国雑志』)、龍爪山が御林として保護されていたことも想定されてくる。このように、かつて、龍爪山は、「上一里四方」が聖域として守られていた信仰空間があったといえよう。江戸時代を通じての参詣道は、「龍爪道」とよばれ、道の分岐点に道標が建てられていた。静岡市川合には、かつて、「左ふちう」、「左龍爪道」と記された道標が立っていた(『千代田誌』)。瀬名から長尾川に沿っての「龍爪道」が、最も利用されたルートであった。
修験道は、山岳で修行をして、験をたかめた山伏の宗教である。中世における熊野詣では、熊野修験の導きによるものであった。熊野信仰の地方拠点であった安東の熊野神社(古くは、熊野三所権現といった)の近くには、熊野修験の寺「宝仙坊」のあり
かを示す中世の地名が小字として残されていることが、指摘される。十 二 社 川は、熊野十二所権現にまつわる命名であり、その元の地が、「十二社之坪」で残されている。上足洗村、北安東村一帯が、熊野の神領地であったことがわかる。ここに、龍爪山が、熊野修験の地方霊場として開発されてくる歴史的背景を読み取ってもよいであろう。小字「身洗戸」や「足洗」は、参詣に伴う身を清める場の痕跡として、解釈できないだろか。すをわち、中世の時代には、この熊野神社あるいは、宝仙坊から、
十二社川を下り、浅畑沼を渡り、北側の東村や南沼上村のヤツ(谷)に入り込み、そこから龍爪山の山塊に分け入ったというルートである。この舟を用いたであろう参詣こそ、龍爪山が修験の山に仕立てられてきたルートといえよう。浅畑沼の水域は、中世の時代、水域を最も拡大した時代と捉えられており、この水域を越えるということに、この世と浄土の境の意味をもたせていたことが考えられる。このように、熊野修験の地方霊場化が、龍爪山と浅畑沼を一体化して、作られていたのではないだろうか。
熊野神社∧静岡市安東∨
熊野神社のお札∧静岡市安東∨
十二社川∧静岡市西千代田∨
以上のように、中世の時代、龍爪山への主な参詣ルートが、時代によって、麻機側から瀬名、平山側へと変遷してきたことが考えられる。さらに、牛妻にある行翁山の岩窟やゴーリンの山岳寺院跡は、安倍川側の西の谷から入り込むルートも古いことを示している。則沢と門屋を東西に結ぶ山道は、かつて、ヨメッコミチと呼んでいたといい、交流が緊密であったという。このことは、行翁山と道白平が、東西方向の山道でつながり、一繋がりの霊場としてあったかもしれないということを、考えさせてくる。すなわち、若山の背後の則沢側の谷に地獄沢があり、地獄と浄土の信仰空間が、東西方向で配置されていたことが再現されてくる。
最後に、龍爪山から直線的に浅間さんの麓山神社へ降りてくる山脚が、参詣ルートになっていたかどうかを、検討してみたい。この道筋は、現在、龍爪山への直線約なセミチ(尾根を行く道)ルートを形成しているが、はたして、参詣ルートになっていたのだろうか。麻機北の瀧の谷には、かつて、阿弥陀仏を本尊とする真言系寺院があって、それらは浅間神社の別当寺、惣持院の奥の院であったと伝える(『麻機誌』)。このことから、惣持院の修験者たちは、麻機の谷で精進潔斎したあと、山中修業に入った事が考えられる。麻機の桜峠から、若山を通って龍爪山へ登れるというが、近代の伝承では、いったん、麻機の瀧の谷からカミクボと呼ばれるところを越え、北沼上へ抜けて、そこから龍爪山に登ったという。江崎惇の『蛇捕り宇一譚」には、「浅間神社のうしろの山を越えて、龍爪山へ行く途中、田圃道へさしかかった。」という一節がある。浅間さんの裏山には、安倍川側と麻機側の人が行き来した、東西をつなぐ峠道の発達していたことは押さえられるが、セミチを辿る南北の縦走コースは、一般の人の参詣ルートとしてはなっていなかったといえよう。縦走コースで龍爪山へ登ることは、近来のことといえ、現在、高齢者の健康維持のためのハイキングに、盛んに活用されている。さしづめ、現代の回峰行といった様相である。近世以前の参詣ルートが、修験道の行場と死者の追善供養の場を結んでいたことがわかり、龍爪山を仏教の霊山として参詣していたことが、歴史の古層にあったとが提示されよう。そうした山上の霊地を守るために、怖い天狗の伝承や魔地の伝承で、一般の人の侵入を防いできたといえよう。行翁山へ行く途中に、モンゾウというところがあり、山へ行く衆が、木の枝を刺して通ったという、手向けの習俗が伝えられている。
江戸時代の参詣は、加持祈祷をしてもらうことが目的の、山上への参詣であった。そして、何よりも、「鉄砲祭り」が呼び物で、参詣人を山上まで引き付けていた。『修訂駿河国新風土記」には、「神輿本社より下の方、仮屋に神幸ある時、其神輿の前後にたちて鉄砲数百挺を放つこと、其音山谷にひびきておびただし」とあり、魔除けの音として、鉄砲の音が呪術として取り入れられてきたことを示している。この鉄砲祭りを見たさに、女子供まで山に登ってきたのが、江戸時代の参詣の特徴といえよう。その伝統は、戦前まで続いていた。また、権兵衛の子孫が山上から里へ降りてきて、里修験になってきたことも、江戸時代後半の大きな変化であった。参詣人を待つだけでなく、積極的な布教活動の拠点を里に作り、龍爪権現への信者獲得をめざしたものといえよう。龍爪権現のお札を売り歩くことを「托鉢」といったといい、吉田神道の裁許状を受けた神官職になってきても、修験道の名残を色濃く留めていたことがわかる。
それでは、一体、山上の山岳修験は、どのような状態であったのだろうか。文政8年、龍爪権現の山伏の虫送り護摩焚きのことがみえており(『船越村名主日記』)、山上に寺があって山伏が活躍していたことが、窺える。このように、神道と修験道の分離が、始まりかけ、それぞれ、龍爪山参詣に誘う次の仕掛けを考えていたといえよう。それが、近代の「玉除け信仰」divであった。