龍爪山の雨乞い儀礼は、山上に牛の首を埋めてくることに、特別な効き目があると信じられ、近代まで、実際に行われてきた習俗であった。この習俗の歴史的系譜が、古い時代の龍爪山信仰に繋がることが予察される。龍爪山と牛をめぐる考察は、中村羊一郎氏の「牛と雨乞いの民俗」(『芳賀幸四郎古稀記念日本社会史研究』所収)、「龍爪山信仰の変遷」(『山と森のフォークロア』所収)に、まとめられている。それによると、牛を生贄にした雨乞いが行われていて、牛石は牛の首を捧げる祭壇として使われたものではないかと述べられている。そして、その信仰の背景を、牛頭天王信仰に連なることを示唆されている。また、牛の頭を捧げて雨乞いをする習俗は、龍爪山だけのものでなく、安倍川流域に広く分布していたことも指摘されている。
現存している牛石は、清水市大内の牛ケ谷、桃林寺の裏にあるものと、梅ケ谷のオイシガヤ、牛欄寺にあるものが、知られている。前者が雌牛で、後者が雄牛とされる。どちらも、元の位置から移動しているが、小さな谷地形を入った、山際ぎりぎりに据えられていたことが、推察されてくる。桃林寺裏の牛石の前には、石の祠に牛頭天王が祭られているし、牛欄寺の牛石も、牛頭天王といわれてきたという。元の場所からの移動の際、下から石が沢山出てきたという。この二つの牛石のある位置は、近接しており、また、その配置が寺の背後ということから、同じパターンの信仰空間を形成してきたといえよう。すなわち、谷空間の最も奥まった所に、牛頭天王のシンボルとして牛石を据えて祀ってきたということである。こうした谷地形は、ヤまたはヤツと呼ばれ、古くから集落占地の場として土地利用されてきた。
牛石(清水市大内桃林寺裏)
山腹に位置する牛見石(静岡市則沢道白平)
石を牛神さんとして祀る事例は、大阪府の南部に見え、七夕の日に牛神さんにお供えをして、牛を連れてお参りするというものであった。また、この牛神石と似た石が、枚方市穂谷の三ノ宮神社の境内にあって、「雨乞い石」と伝えられているという(瀬川芳則『イモと蛸とコメの文化』)。こうした、事例から、牛石が村々における牛の利用の歴史とも、深く関わっていたことが、浮かんでくる。
日本における牛の存在は、縄文、弥生期には伝播していたとみられ、古墳時代から農耕などに取り入れられてきたことが知られている。古代においては、『続日本紀』に「牛を殺して漢神を祭る」とあり、その信仰的系譜に、朝鮮半島からの渡来人がもたらしたものと考えられている。牛頭天王信仰のルーツは、かなり古いことがわかり、日本における渡来人の移住地の歴史を、視野に入れておく必要があるだろう。古代、疫神の侵入を防ぐ、道饗祭や疫神祭が行われていた。怖い祟りをなす神様と考えられていた。そこで、牛頭天王を祭り込めることが、仏教の加持祈祷の呪法をとりいれて行われて来たと言えよう。「殺牛祭神」は、「神仏習合の過程において、疫病防禦の神に転化した」してきたと考えられている(脇田晴子『中世京都と舐園祭』)。静岡においても、別雷神社、少将井社(小梳神社)など、雷神や牛頭天王を古い時代から、駿府の守り神として祀っていた。以上のような、歴史的背景の元で、「殺牛祭神」が、さまざまな祭りの中に伝承され、中でも、雨乞い儀礼には、民間祭祀として、後の世まで根強く伝承されてきたものと思われる。牛肉を食べてはいけない、牛を飼ってはいけない、そして、浅間さんの上り祭には、参詣の人の皮製品の持ち込みを禁止していた。こうした、禁忌は、祭りに使われる神聖さを、保つために行われてきたといえ、逆に、牛や動物の皮が祭具として神聖視されてきた伝統をしめすものである。道饗祭や疫神祭には、牛、猪、鹿、熊の皮が使われたという。龍爪山は、こうした古代からの祭料としての動物をとる、神聖な狩猟の山であったかもしれない。龍爪山と牛頭天王信仰との、直接的な伝承は残されていないが、『日古登能不二』には、「雨乞の時、農民牛頭を携へ登り、山上に埋め祭る時は雲起り雨を降らすと也」とある。山上が、祭壇的に使われていた痕跡といえよう。この龍爪山に牛の頭をささげてきた手向け的行為は、牛頭天王への供えものと見てよいであろう。龍爪山への供えものとして、留意される伝承が、初茄子を龍爪山に向けて手向ける風習である。
牛頭天王を祀る社(静岡市牛妻)
へさき龍爪山に向けて初茄子を供える(再現)
竹の棒に初茄子を突き刺して、へたを龍爪山の方向に向けるといい、こうした手向けをしてから、初めて、茄子が食べれるようになったというものである。この風習は、清水市側の農家に伝えられてきたもので、静岡市大谷あたりでは、「オテントウサンにあげる」といって、同様な儀礼が行われていたという。また、茄子を戸間口に吊るして、魔除けにしたという伝承も、清水市側に残っていた。
茄子は、お盆の時、牛を作る材料に使われており、牛の見立てになってきた野菜である。初茄子を牛に見立てての、手向けではなかろうかという仮説が提示される。龍爪山に牛をしんぜるという心意が、形を変えながら受け継がれてきた儀礼ではないかという、解釈である。そして、何よりも、山に向かっての手向けの行為は、龍爪山に鎮まる神霊を、恐れ崇めてきた伝統を、くみ取ることができよう。
神聖な領域を、汚れたものを持ち込んで荒らすから、それを怒って雨を降らすのだという解釈が行われているが、元は、神聖な供え物であったのである。そして、その供える場に、浅畑沼の水中と、龍爪山の山上とがあったのである。沼の婆さんの伝説は、仏教の功徳を説く説話であるが、その信仰の背景に、怖い祟る神が、浅畑沼に祭られていた事が考えられる。その祟り神を、仏縁で庶民を救う神に転化してきたといえよう。
このような、祟る神としての位置づけに、牛頭天王があったものと思われる。牛頭天王信仰は、中世の時代に広く受け入れられていた。龍爪山に、祟り神としての牛頭天王が、祭られていたのではないかということが、ここに、推察されてくる。薬師岳、文珠岳は、山に薬師如来、文殊菩薩の本地仏を見立てての命名と思われ、神仏習合による牛頭天王の本地仏としての想定である。また、牛妻の福寿院に、龍爪山から降ろされたと伝えられる仏像の中に、十一面観音像があることも注目される。中世における、龍爪山の仏教化の流れの中で、牛頭天王信仰が習合してきた過程として、捉えて見たいということである。
牛の頭を、池や山に供える習俗の歴史的系譜が、牛頭天王信仰に由来する事が分かり、その歴史もかなり古い事が示される。牛石や牛見石は仏縁の説話に彩られているが、その古層に、「殺牛祭神」の歴史が考えられるといえよう。