近代の龍爪山参詣は、玉除け信仰の元、出征兵士の無事の帰還を祈ることが目的であった。戦前、三社参りとか五社参りとかいって、いくつかの神社を1日で巡って来ることが行われていた。龍爪山の穂積神社も、必ず、その中に入っていた。
∧玉除ようかん∨の旗
静岡市平山
玉除ようかん の旗
 戦時中は、出征兵士の家族、親戚、仲間などの祈りが、龍爪山に向けられていた時代であった。出征兵士の面影が、龍爪山に重ね合わせて偲ばれていたといえよう。まさに、山に人の面影が偲ばれていたのである。切なく思って、龍爪さんにすがった時代であった。龍爪さんの玉除けのお札が、戦地の兵士にお守りとして送られていたのである。
 承知のように、龍爪権現の古層には、軍神としての武運長久を守護する伝統があり、それは、戦国時代の伝統を引き継ぐものといえよう。そこには、相手を負かすという積極的な意味が込められているが、玉除け信仰はあくまでも、玉が当らないようにと願う身の安全にかかるものであった。近代における龍爪山の玉除け信仰は、戦時下という特殊な社会状況の流行神として捉えられており、鉄砲祭りの的当てとは対極にあることが留意されよう。
 鉄砲祭りは、江戸時代の龍爪山祭りの呼びものであった。鉄砲の発射音が、魔除けに取り入れられてきたことが考えられ、音が祭りの呼びものになって、龍爪山の存在を印象づける仕掛であったともいえよう。鉄砲玉が当たらないとするお札は、個人に係わる私事を優先させたものといえ、災厄を避ける呪術の延長線上に考え出されてきたといえる。
 修験道の災厄除けは、龍爪山においては疱瘡除けの加持祈祷に行われていた。疱瘡はさけることのできない災厄と考えられていて、これをできるだけ軽くやり過ごすことが祈られていた。この疱瘡除けの系譜の上に、戦争における玉除けが考え出されてきたといえる。庶民の生活の中で、時代時代によって災厄と考えられたものが違い、龍爪山信仰は、そうした災厄を敏感に感じとって、それをさける呪術を前面に出して、流行神となってきたのであった。庶民の救済、そこに龍爪山が、「龍爪さん」と呼ばれて、親しまれてきた背景があったのである。
 「龍爪山縁起」(『麻機誌』所収)には、「弓鉄砲の矢玉除け」とあり、弓矢もつけ加えられている。近代は、庶民が兵士として、徴兵制の元で戦争にかり出された時代であり、避けて通れないものとして、戦争があった。戦争を、疱瘡と同じような災厄と考えた庶民の思いがあったといえよう。
 日清戦争に出征した記録が、『千代田誌』に「日清事件軍人書状扣簿」として所収されている。それによると、北沼上則沢から出た兵士のために、「龍爪山矢玉除御守」が送られている。また、戦地からの手紙には、「二伸、小生儀、龍爪山信仰ニ付、三食ノ内二度ハ牛肉野菜ニ候。必ズ不食候間、御安神可被下候」とある。平山では、牛肉を食べないという伝承があり、明治時代の中頃において、龍爪山信仰においては、牛の肉が禁忌になっていたことがわかり、それを実践していることを伝える文面となっている。このように、龍爪山信仰と矢玉除けの間に、牛肉を食べてはいけないということが守られていたことを示しているのである。この辺に、龍爪山信仰の元が秘められているといえよう。なお、浅間神社の上祭には、「氏子等鰶を禁ず又参詣の人常に皮革の類を禁ず」とあり、きびしいおきてが山宮の祭りにともなっていたことがわかる。龍爪山信仰を信じるものは、牛肉を食べなかったのである。
 以上のように、近代においては「龍爪山玉除御守」が、信仰として厚く信じられて戦場の兵士達に送られていたことがわかる。
 お札といえば、昭和14年、静岡県の女子青年団の代表が、戦地を回って、兵士達にお守りを届けた記録がある。『御神符慰問使』(大石秀夫編 静岡新報社 昭和15年)には、その経過が書かれている。そして、その時、配られたお札は、伊勢神宮のものであった。をぜ、龍爪山のお札ではなかったのであろうか。ここに、龍爪山の出す玉除け祈願のお札が、特殊な位置づけにあったことが逆に示されてくる。
 個人と国家の違いが、そこに端的にあらわれているといえよう。龍爪山は、個人の本音に基づいた祈りであった。それは、徴兵除けにつながる一面を持っていた。明治時代の中頃における「玉除け、徴兵逃れとしての龍爪信仰」(中村羊一郎)は、戦争とその徴兵を庶民が災厄と捉えていたことを示している。こうしたお札では、都合が悪かったといえよう。そこに、伊勢神宮のお札が、女子青年団によって配られた理由があったと思われる。龍爪山は、庶民の本音を近代の戦時下の中で受けとめてきた山であった。