第3節 山岳信仰の始まり
 古代の龍爪山が、どのように信仰されていたかを示す直接的な史料はない。ただいえることは、弥生時代になってくると、静岡、清水平野の沖積地に村の開発が増加してくる。そうした弥生人の生活環境の中に、龍爪山が聳えて、現代のわたしたちが眺めている山並みのシルエットを、弥生人も眺めていたのだなという思いに、ふと、至ることがある。二千年の時を隔てていても、同じ山並みを共有しているという、風景体験の繰り返しである。その土地に生きるということは、風景体験の思いを、知らず知らずのうちに受け継ぐことだともいえよう。
 静岡、清水に暮らす人々にとって、龍爪山が風景体験の原点にあるといっても、過言ではないだろう。山の風景からの影響を、「龍爪さん」と擬人化して呼んできたところに、端的に示している。静岡、清水市民は、龍爪さんと付き合ってきたのである。付き合いに情愛を込めてきた山であった。
 それでは、原始、古代においては、山とどうつきあってきたのだろうか。山には、祖霊や自然界のもろもろの精霊がやどり、自然現象を支配すると考えられていた。霊的なものがすまう異界として怖れられていた。山そのものには近寄らず、遙か隔てた所から拝むものであった。人、山を拝み、山、また、人を守るという関係が、地域地域の風景体験として蓄積されてきたということである。麓からみて、山の形が3角形をした高い山に、神霊のやどりを感じとり、その神霊に生活を守られているという感じ方である。
 山そのものに神の姿を感じとる感性を働かせて、山に対していたといえよう。そして、山は境を象徴する風景を形作る。山に、境の神がやどり、旅人の手向けの対象となってきたことが、古代伝承として見受けられる。その土地に滞在したり、通過するときは、必ず、手向けの祈りが、山に向かって行なわれていた。ここに、龍爪山が、古代の山岳信仰の形として、手向けの山として拝まれてきたのではないかという仮説が提示される。
 静岡、清水地域で古代の境の神へ手向けして通る山としては、現在の薩埵峠付近の磐城山が知られていた。「あらぶる神」が境を守っていたという伝承である。山に手向けをして、その無事の通行を祈ってきた場所は、古代の東海道のルートと密接な位置関係にあったといえよう。そこに、歌枕としての「名所」が、旅人に意識され、喧伝されてきたといえよう。
駿河府中の歌枕は、「倭文幡山」であった。
 『駿河志料」には、倭文幡山を詠んだ歌が数多く収められている。奈良時代には「するかちの青葉かおか」と呼ばれていたことがわかる。また、「するかなるしつはた山」とあり、富士山はさておいて、この付近を代表する山として知られていたことを、示している。歌の内容は、古代には、「春のうくひす」、「紅葉のにしき」、「かすみ」、それに「時雨」がかぶさってくる倭文幡山の情景へ、季節の変化を読み取った歌がおおい。それが、近世初期ごろになると、山をことほぎの象徴として歌ったものが目立ってくる。

 後水尾院の歌として、
 しつはたの 山もうこかぬ 君か代に なびく奈吾屋の 森の下風
 君か代の しつはた山の しつかなる 世そうこきなき 千とせ万代

 と、ある。どっしりとした山容に、世の治世の安泰をかけて、寿いだ歌である。 従一位藤原胤定公の歌に
 幾御嘉代の しつはた山の 花のにしき ぬさもとりあへす 手向けをそする
 慶の 長きむかしの ためしあれは 栄えをいのる 賎はたの山

 このように、山そのものに祈りを捧げる伝統が、近世の初めまで続いていたことがわかる。今少し、引用しておくと、胤定卿奥方の歌に、
 千とせまて ねかひの糸を きみとわれ かけてそいのる 賎機の山

  同息女陳子方の歌に、
 佐保姫の 織やしつはた 山のにしき 手向けて千代を 祈るわか中

 同息女藤子方の歌に、
 行末を 猶こそいのれ しつはたの 山もうこかぬ 千世をためしに

 同息女孝子方の歌に、
 ことふきを 祈るしつはた 山姫の 神のちかいの 千とせ万代

 同息女千子方の歌に、
 たくいなき 此神垣の ちかいをそ あふくも高き しつはたの山

 同女房延子方の歌に、
 幾千代と ねかひの糸の 末なかく しつはた山に かけて織なり

と、ある。「しつはた山」を、祈りと手向けの対象にして詠んでいる歌である。静岡浅間神社は、新宮として、駿河の国の守り神としての伝統を引継いでいた。神社に参詣しての手向け歌といえるが、山そのものに祈りを捧げた歌となっている。特に、「山姫」という表現が留意されよう。この「山姫」が、古代の伝承を引継いでいるのかもしれない。
麓山神社(静岡市)浅間神社
麓山神社(静岡市)浅間神社
 浅間神社の位置は、龍爪山の山脚の麓にあり、まさに、奥山に対する麓山(はやま)である。ここに、山宮とも呼ばれる麓山神社が祀られている。このことが、古代の龍爪山を考える手掛かりとなる。倭文幡山を神体山として崇め、その麓に山の神霊を迎えて祭りを行なってきた古代の伝統の名残とみる見方である。さらに、麓山に対する奥山の領域をどう考えるかが、問題となってくる。龍爪山の謎解きに、山域の問題があげられる。自然現象に関していえば、「時雨」の気象風景は、龍爪山のものといえよう。たえず、雲、雨、風の絶えない山として認識されていた。龍爪山が古くから観天望気の山として、雨や雲の動きの目印にされてきたことを示している。倭文幡山の時雨は、古歌の伝統であった。この時雨の気象現象からいって、龍爪山が、倭文幡山の奥山と捉えられていた時代があったのではなかろうか。時雨のおおい山、それが倭文幡山を詠んだ古歌の伝統に留められてきたといえよう。
 このように、古代の龍爪山を解く鍵は、気象現象と信仰が結びついていたことを、切り口にすることが考えられる。山から麓への神霊の去来が具体的に、気象現象で示現されていたのではないだろうか。谷川健一氏は、遠山の霜月祭の神楽歌「しぐれの雲にのりてまします」を、神の去来の様子として好きであると述べている(『民俗の神』)。倭文幡山の時雨も、そうした神の去来を示す現象と捉えられていたのではなかろうか。時雨を、単なる気象現象と見るのでなく、その雲や雨あしの動きに信仰的意味を反映させて眺めていた伝統が古くからあったということである。時雨の似合う山、それが古代からの龍爪山の風景的伝統であったといえよう。
 そして、龍爪山の気象現象として忘れてならないのが、雷である。すなわち、龍爪山を中心にした雷の通り道のことである。静岡市大谷の増田作一郎さんによると、「龍爪雷、鳴りじいけ」という事をかつていったという。大谷あたりの気象現象の言い回しでは、龍爪山の方から来る雷は、だんだん力が弱くなって怖くないという意味あいで使われてきたものである。雷の来る方向性に龍爪山があったことを伝えるものである。山から里への雷の動きを示すものである。雷は、雷神の去来として信仰されてきた。雷の通り道として、龍爪山が中心にあったことを類推してもよいであろう。
 龍爪山は、夏期、積乱雲を呼込む山として、雷の多発地帯の認識があったといえよう。南に南下する山脚がのび、その谷筋や山筋が雷の通り道であったことが気象現象として認識されていたといえよう。奈吾屋社に雷神を祀ってあり、その延長線上の町中に別雷神社と龍相山雷電寺が位置していた空間配置は、留意する必要がある。雷神を鎮める祭りの場としてとらえられよう。それは、龍爪山から南西に一直線に降りていく山脚である。あらぶる雷神を、里で祀った信仰配置を再現できよう。
 以上のように、時雨と雷という気象現象が古代からの神の去来と結びつき、その元となる龍爪山が、神体山と仰がれる風景的伝統を受け継いできたといえよう。
 そして、龍爪山の「龍」のイメージは、一体、いつ頃、準備されたのだろうか。雷の稲妻を、天に昇る龍に見立てた時代が、古代から行われていたのだろうか。弥生時代からの米作り農民は、豊作の元である水をもたらす雷を、怖れ崇めていたのであろうか。山と気象現象の関連の中にこそ、山岳信仰の始まりが秘められているといえよう。その意味で、龍爪山は天気の占いと神の去来の占いを重ねあわせた神体山としてあったと考えられる。
 龍爪山の山頂から賤機山へ向かう山脚は、長々と延びている。この山の姿そのものを、龍に見立てた時代があったのだろうか。山頂が天をめざす頭で、麓山が尾に見立てられよう。また、この山脚が、天と地を繋ぐきざはしにもたとえられようか。