第1節 山名由来の謎
 龍爪山は、静岡市、清水市にまたがって聳える秀麗な山である。山の形は、2つの峰からなり、左側の少し尖った三角形に見える山頂の山を文珠岳(1041メートル)、右側奥の丸みを帯びた山頂の山を薬師岳(1051メートル)と呼んでいる。この二峰を総称して、龍爪山という。龍爪山を中心に、東側に高山の山並みが続き、西側へは若山の山並みが続いている。三角形がところどころ飛び出たなだらかな山並み、これが、静岡、清水平野から望む、印象的な天と地を分けるスカイラインとなっている。
 龍爪山は、地学的に見ると、糸魚川、静岡構造線が通っている縁に位置し、海底火山の隆起した火山の山である。この山筋が北に伸び、安倍奥の山々に連なっている。稜線の東と西で山梨県との県境をなす山並みでもある。龍爪山は、さしづめ南アルプスの支脈が南下してきて、その1000メートル級のブナ林地帯回廊の南端の行き止まりといった趣を呈している。逆に、このブナ林地帯回廊が、安倍奥や甲斐の奥山に入って行く入り口であったといえよう。それはまた、野性動物の移動する「けもの道」であった。火山の山、山頂がブナ林地帯に属する植物相であったことを、龍爪山の自然の枠組みとして押さえておきたい。龍爪山の山林資源、動物資源、それに鉱物資源などの自然の恵みは、こうした自然史的環境を背景として育まれてきたのである。山の幸をもたらす生活に欠かせない山として、原始、古代から、龍爪山のブナ林の森が認識されていたといえよう。
 しかし、龍爪山は歴史の中に、なかなか山の名前を表してこない山である。山の姿に神体山や霊山としての雰囲気は十分醸し出しているのに、山岳信仰の山、手向けの山としての「龍爪山」の山名は、近世以前出てこないのである。この山名の起源をめぐっての謎解きが、まず、問題になってこよう。
 歴史の謎解きにおいても、仮説の提示は欠かせない。山岳寺院の史料的裏付けを失った龍爪山ではあるが、山麓の村々に残る伝説や言い伝えは、山岳信仰の痕跡に繋がる系譜を秘めている。仮説の組み立てとなる史料は少ないが、ここでは、民俗伝承や古歌を手掛かりとして、謎解きの叩き台としてみたい。そして、龍爪山の山岳信仰の歴史的変遷としては、中世から近世にかけての間に、一線を画するほどの大きな転換期があったことが予察される。特に、中世の時代には、龍爪山の手前に大きく水域を広げていた浅畑沼の信仰空間としての意味付けが欠かせない。その意味で、沼のばあさんの伝説は、龍のイメージを育み、龍爪山の龍のイメージを準備した歴史の古層として、留意する必要があるだろう。水域と山を一体化して捉える信仰空間の中で、龍爪山の仏教化が展開してきたことが、予察される。
 さて、龍爪山という山の名前は、近世以前の古記録には、なかなか出てこない。古代、中世を代表する駿河の山としては、歌
しづはたやま
枕としての「倭文幡山」である。現在は、賤機山と表記され、浅間神社のある裏山一帯をさしている狭い範囲の山名として使われている。この尾根筋を辿っていけば、龍爪山に至る。
はやま
 浅間神社の境内社に、麓山神社と呼ばれる山宮が祀られている。この麓山に着目してみると、麓山に対する奥山という山の広
がりを考えてみる領域論が浮かびあがってくる。賤機山の領域を、麓山と奥山で捉え、龍爪山を奥山とする山の見方がなされて
わかやま
いたのではないだろうかとする解釈である。なお、山名の呼び方で、龍爪山の手前に位置する山を、若 山と呼んでいることに
も留意しておきたい。すなわち、麓山、若山、奥山という分け方である。
 『駿河志料』に掲載されている倭文幡山を歌っている古歌を調べてみると、山に祈りが捧げられていたことがわかる。山の情景としては、はつしぐれ、しぐれの雨、むら時雨、時雨など、時雨と結びつけて歌ったものが目につく。倭文幡山が、時雨と結びつく伝統が古歌にあったことが指摘されよう。また、歌の中に「山姫」とあり、倭文幡山の山の神を女性と見ていたことを示している。願いの糸を手向けて祈る風習があったことを示している。そうした歌の一つに、息女千子方の作った

 たぐいなき 此神垣の ちかひをそ あふくも高き しつはたの山

というのがある。また、権中納言実勲卿の歌に

 うつしみる ふでもおよはし 賤はたの 山のすがたの かはる世そなき

とある。天と地を分ける山並みの高さと美しさに感動しての歌といえ、賤機山の奥山、すなわち、龍爪山一帯を含んだ眺めであったことが推定されてくる。古歌の歌枕「倭文幡山」は、その範囲を今よりもずっと広く捉えていたといえよう。
 さらに、時雨に着目してみると、龍爪山の別名、時雨の峰、時雨が峰に繋がってくる。日本武尊が東征の折り、時雨に衣を濡らしたので時雨の峰とついたといういわれが伝承されている。麓山神社の奥には、日本武尊を祀った岩戸社があった。このように、倭文幡山の麓の地で、時雨の峰に結びつく要素がかもし出されていたのである。時雨は濡れるイメージに結びつき、そこに伝説上の人物日本武尊が結びつけられてきたといえよう。
時雨できた龍爪山(静岡市麻機)
時雨できた龍爪山(静岡市麻機)
 以上のように、龍爪山の山脚が南西に降りてくる山並み全体を、古代、中世には、倭文幡山と呼んでいたのではないだろうか。このことは、龍爪山をめぐる山麓線がかつて重要な交通ルートの位置を担っていたことと関係あるだろう。倭文幡山(龍爪山を含む)の山の神が、境を守る神として手向けをして通る信仰に培われていたといえよう。龍爪山は、古代、境の神の象徴として崇められていたのではなかろうか。山への誓いを詠んだ古歌が、そのことを示している。
 文献でさぐる限りでは、古代・中世において倭文幡山が駿河府中を代表する山として認識されていたといえよう。歌枕は名所を指したもので、古歌の歌枕に採用されることは、倭文幡山が駿河府中を通過する際の名所であったことを示すものである。それはまた、時雨と結びつく伝統があった。こうした歴史を背景として、「時雨」系の山名由来の元が仮説されてくる。すなわち、時雨の峰、時雨が峰の峰は、倭文幡山の一番高い所という意味で、現龍爪山をさして、そう呼んできたとする解釈である。倭文幡山は時雨の似合う名所として古くから知られ、山頂の眺めに、時雨が集約され、山名由来の起源になったということである。「時雨」系の山名が古層に比定される根拠である。龍爪山の山名の系譜に「時雨」系と「龍爪」系があることが理解されよう。「ジウソウサン」と「リュウソウサン」は、確かに音通意託が考えられるが(中川芳雄「時雨窓
らんしょう
濫  觴」『静岡市史近世』所収)、音の変化と山名の漢字表記を混同してはならないだ ろう。「龍爪」の爪の字を「ソウ」と読みとることには、かなりの素養がいる。龍爪が上につく単語には、「龍爪稗」(シコクビエのこと)、「龍爪花」(スイカズラのこと)があるだけである。また、山名としても、「龍王山」、「龍頭山」などはあるが、龍の爪に由来する山の名前は、日本においては龍爪山しかない。龍爪山という漢字表記は、かなり特異な字面であるということができる。
 このように、中世後半の歌には、龍爪山が眺められている状況はわかるが、山の名前としての「龍爪山」という文字はみあたらをい。このことは、この時代、「龍爪山」という山名は、まだ、なかったということを示しているのではないだろうか。ちなみに、中世の後半、安倍郡の北側に聳える奥地一帯の山々は、「安部山」と総称されていた。いつごろ、龍爪山と名付けられたのか、山名由来の謎解きのポイントである。