史料として二編載せてある。1は「駿州竜爪山丑年山札相改山手米銭員数帳」、2は「駿州安倍郡北沼上村検地帳 写」である。それぞれ元禄10年と、元禄4年という、比較的年代が古い文書である。共に竜爪山秣場山論の、すぐ後に出来たものである。非常に興味深い史料ということができる。
実は「竜南の古文書」は、当地区の史料を集めようと、思い立つて、始めた仕事である。従つて、古史料を忠実に翻刻して紹介し、保存したいと云う考えが主であつた。数年前小著「竜爪山」を書いて時に、ほとんど見た文書であつたから、これらの文書が散逸しない為にも、是非そうする事が必用だと、考えていた。
ただし原文の翻刻は、大方の読者には、大変読み難いものである。一般の読者に読んで貰う為には、どうしても現代文になおし、読み下し文にする方が読みやすい。
それで始めの計画は、1ぺージの上段に翻刻を置き、その下段に読み下し文をつける、と云う事であつたが、それがいろんな都合から、困難となり、このような形となつた。即ち、請証文や、済口証文等は読み下しとし、員数帳や、検地帳等は翻刻で掲載した。
○ 駿州竜爪山丑年山札相改山手米銭員数帳
これは元禄10年丑年のものである。この員数帳は毎年書き改められるものであるが、実際には、前年度を踏襲する事が多い。殆んど員数にも、変りがなかつたのである。
元禄2年の竜爪山秣場争論の結果、再び山札の携行が厳しく義務づけられて、このような帳簿も備え付けられるようになつたのである。しかしまたいつとは無しに、乱れていく。
員数帳には、入郷村々の馬札、歩札の数と、その代金が記されている。また各村の地頭の名前が記されている。それは旗本の知行地が多く、役知(役職上の知行所)もあり、大名領は、小島藩領がある。又相給──二名以上の地頭──の村もある。
馬札は、入山に馬を使用する事が出来る山札であり、歩札は、百姓一人の入山許可証である。普通、馬札は歩札の倍──仕事料と代金──とされているが、この帳簿の場合、必ずしも一定していない。又それぞれ一枚の代価も、村によつて差がある。
例えば押切原村の馬札は、一枚につき百文であるが、鳥坂村や楠木新田村は、二百文である。この相違は何故であるのか、不明であるが、或いは村毎の総採収量を、計算して、そのようになつているのかも知れない。歩札についても、そのようなひらきがある。
又請の郷というのがあるが、これは札山に近接の村々がそうであるが、請の郷の実態はわかつていない。
尚この記帳は平山村分への入郷であるので、平山村関係だけの山札帳である。他の地元村も、このような台帳を作つて、保管しておいたのである
。
○ 北沼上村検地帳
この検地帳は元禄四年に、時の駿府代官古郡文右衛門の手代、芳賀与一右衛門、杉山弥一郎両名によつて、同年9月18日から、9月27日まで、10日間かかつて、検地されたものである。
検地は浅畑沼の奥から始まり、山を越えて、現在の北沼上の地区へ移つて来た。そして南から北へ、ずつと則沢地区まで、行なわれたのである。
元禄年間と云えば、いわゆる元禄文化の華やかな時代である。民衆のパワーもようやく充実して来た。そして村の形態も近世風に整つて時代でもある。しかしそれは、中世的なものが集約されて、花開いたと云うことができ、そこに、もととなつた古態を見る事が出来る。この検地帳からも、そのようなものを、読み取る事が出来るのである。
例えば北沼上(特に則沢地区)の池田氏の事であるが、池田氏は駿河大納言忠長に仕えた武士であると云われている。忠長の切腹の後、発生の地池田──静岡市──へ帰農し、更に幕府に遠慮して、山間地へ引き込んで来た、と云われている。この大納言忠長は、3代将軍家光の弟であるが、兄と将軍職の事で不仲となつた。そして切腹するのである。この検地帳には、池田氏の名前は、まだ出てこない。これは三枝庵過去帳等照合して、そのように言う事ができる。当時池田氏はまだ、表面上は土地を持つに至らなかつたのであろう。
又、長尾区住民の持ち地であるが、元来この北沼上の地は、豪族長尾氏の開拓した土地であつた。従つて北沼上の地内に、長尾区住民の田畑が、数多く入り込んでいる。幕府は江戸時代の初期に、長尾氏の跡地へ、浅畑沼の奥に住んでいた住民を移転させて、村を作つたのである。
沼(浅畑)上に住んいた人々が、長尾川の西岸の地の、北の部分に村を作つたので、北沼上村と言い、南部へ村を作つたのを、南沼上村と言つた。沼の上から移動して来た人々の氏名は、──当時の人々の氏名ではなくて、その子孫の氏名は、この検地帳と、関係寺院の過居帳等にょつて、ある程度たどる事が出来るのではないかと、考えている。とにかく、北沼上村成立の年代は、徳川家康が駿府城を築城する後と考えられ、あの「長尾、平山夜がない」と言われていた時代には、まだ出来ていなつた。この検地帳は、北沼上村成立の歴史を、ある程度物語つてているのである。
さてこの検地帳は、現在北沼上に残つている、唯一のものである。誠に貴重な史料である。但しこれは写本である。所蔵している池田氏の御先祖が写されたものか、或いは写本を入手されたものか、それは不明である。
ただしこ中に、あきらかに写し間違いと思われる箇所も、何箇所かある。総面積をすべて正しいものとして、縦横の間尺を、できる限り訂正した。
○ おわりに
最後に全般的な事を言うならば、この竜南の古文書は、すべて原文そのままの翻刻を、残すつもりでいたが、それが先に述べたように、不能となり、読み下し文を主とする事になつた。史料性の立場からすれば、或いは少しマイナスになるとも考えられるが、それはそれでいいのではないかと考える。又別の機会に、翻刻だけをまとめたいと思つている。
何はともあれ、これを12分に活用していただいて、この地区の郷土史や地域史を、更に発展させていただけたら、望外のよろこびと、思う次第である。
用字の事であるが、地方文書特有の使い方や、古文書特別の読み等、いくつかあるが、その殆んどを解説せずに、終つてしまつた。勿論できる時には解釈は付けて置いたが。やはり気になるところである。しかしある程度は、常識で行けるものも、多いと思つている。
しかし用字用語で参考にされるならば、駿河古文書会編「駿河の古文書」の解説資料集、用語の部等、大いに参照していただきたい。又は柏書房「古文書用語辞典」、角川書店の「日本史辞典」等、大へん参考になると思う。