新川一件と云うのは、長尾川をつけ替えて、浅畑沼回りの冠水を無くし、その一帯の田作りを可能にし、併せて長尾川流域にある芝地(荒れた草地)を開発するという目的を持つて、計画された事業のことである。
長尾川は竜爪山から流下する、急流であるが、毎年台風の度に、おびただしい土砂を押し流し、巴川の合流点を埋め、その為に水吐けが悪くなり、浅畑沼一帯の田畑が水没する。毎年がこの図式の繰り返しである。こう云う考えが基礎となつて、新川の問題はおこつて来るのである。
これは以前から、巴川沿岸18ケ村の人々の、強い希望であつた。勿論請願を受けて、駿府代官所も、同調したのである。巴川の治水と云うことは、沿岸18ケ村、一万二千石の田の水腐れを防止するという重要な仕事であつた。
新川と云うのは、長尾区の村下、「一の瀬」と云う所から、鳥坂村の「二ツ宮」という所まで、ずつと東側の山の裾を掘り進み、四十一丁の間、長尾川をつけ替えてしまおう、というのである。
そうする事によつて、巴川、長尾川の合流点がずつと下り、落差が生じて、巴川の水吐けがよくなり、沼回りも干拓が可能になつて来る。そして沼回りでは、約六百石の増収が見込まれていた。
又不用になつた長尾川の河川敷は、田として開墾する事が出来る。この河川敷で千石が見込まれる。更には流域の芝地も、それによつて田畑として、開発する事が出来る。新川掘り替えによつて失う田畑は、四、五百石に過ぎない。まことに一石二鳥とも、三鳥とも云うべき、バラ色の計画であつた。勿論代官所も、幕府も、これを強く推したのである。
しかしこの計画には、地元瀬名村が真向から反対した。反対と云うよりは、全くの拒否であつた。更には瀬名川村、鳥坂村も、強く反対したのである。
何故そのように恐硬に反対、拒否したのであろうか。勿論長尾川は竜爪山から、一気に流下する急流であつて、ふだんは瀬名「水梨」のあたりで、水無し川になつてしまう。しかし一たん、台風でも来て大雨が降ると、忽ち濁流満水の荒川に変貌する。そして両岸どこかの土手が切れて、洪水となり、田畑や人家を押し流してしまう。その被害を一番被るのは瀬名村である。
しかし、それだけでは無いようである。瀬名村があのように、執拗に反対したのは、別の理由があつた。それは何かと云えば、瀬名芝地の開発と云う事である。長尾川の流域には、相当広い芝地があつた。この地は、或いは瀬名村を支える、隠し田的存在ではなかつたろうか。駿府代官の見分に対しても、結局は言を左右にして、全貌を知らせなかつた。
幕府はこの芝地のあぶり出しに懸命であつたが、瀬名村は必死になつて、それをガードした。この隠し田(地)を温存する事が、新川を拒否する最大の目的であつたと思う。更に沼回りにも瀬名の持ち田があつて、10年一作であつても、検地帳に載らない田は、それなりに魅力があつた。
ここでこの一件の経過を、簡単に追つてみよう。まず巴川流域18ケ村より、享保9年に、幕府勘定奉行へ、巴川水腐れ防止、沼回り新田開発の訴状が提出された。尤もそれ以前にも、元禄15年に、一度そのような運動がおきているが、本文書に関係するのは、享保9年の請願が始まりである。
- 享保11年(1726)
- 瀬名、瀬名川、鳥坂、3村村役人、駿府代官所にて、新川掘り替えの通告を受ける。請負人、江戸亀島町 善右衛門、平右衛門、伊兵衛。金元、江戸芝猿町 神沢清助。
- 享保13年(1728)
- 新川工事始まる
- 〃 14年(1729)
- 関係各村役人、代官所にて新川工事の状況を聴聞される。
- 〃 17年(1732)
- 新川工事の中止の決定を通知される。
- 〃 21年(1736)(元文元年)
- 浅畑沼並びに瀬名芝地、古田新田境立て、請願(神沢清助)。
- 元文 5年(1740)
- 神沢清助、新川掘り替え、芝地開発工事再び請願。
- 寛保 2年(1742)
- 駿府通町 太兵衛、安東村 茂左衛門新川等工事上願。(両名は神沢清助の代理者。)
- 宝暦 4年(1754)
- 神沢清助三たび上願。
- 〃 6年(1756)
- 神沢清助跡株、安五郎後見 武州矢上村喜右衛門、江戸白金猿町妙玄院、新川並びに芝地新開上願。
- 宝暦10年(1760)
- 同請願不許可となる。
- 安永 5年(1776)
- 新川工事、芝地開発上願。駿府御台所町 源兵衛、同伝馬町 弥次兵衛、駿州川合村 弥兵衛、右惣代 伝右衛門。
- 安永 8年(1779)
- 同請願不許可となる。
- 〃 10年(1781)(天明元年)
- 北沼上村地内山穴掘り抜き、長尾川を浅畑沼へ切り落す件上願。
願人 府中上魚町 源右衛門、連名人 下足洗新田 市左衛門、同村 庄右衛門、府中上ノ店 林右衛門、川合新田 与一右衛門、同村 与五左衛門、金主 府中 庄兵衛代 庄左衛門。
尚、この北沼上村地内(字上坂)、山を掘り抜き、長尾川を沼へ切り落す件について、願人方と関係各村役人とが、川合増福寺に於いて、何回か談合を持つた。しかし総て平行線をたどり、この一件も御不用(不採用)となつた。勿論この計画は、新川付けかえの代案として出て来たものであるが、瀬名村をはじめとする地元村の、強い反対にあつて、立ち消えとなつたのである。
以上の通りであるが、この文書をずつと読んで行くと、請負人神沢清助の、工事に対する強い執念を感ずるのである。更にはそれを上回る、瀬名村の主導による、取りこわし運動の激烈さである。とくに瀬名村の一歩も引かぬ拒否行動には、読んでいて頭痛すら感ずる程であつた。
これはやはり、新川工事の台風時に於ける、危険と云う事もさることながら、瀬名芝地のあぶり出しに対しては、村の命運をかけたような反対であつたと、考えざるを得ない。幕府の官僚に対して一歩も引かず、かえつてたじたじとさせるような、感じさえするのである。
度々ふれたように、この新川付け替え工事は、浅畑沼周辺の干拓と、瀬名芝地の開発、更には不用になつた長尾川河川敷の耕地化と云つた、多目的の開発の為のものである。土地の開発と利用は、幕府の最も基本的な政策の一つであつた。
従つて請負人神沢清助の度々の上訴は、必ずしも彼一人の執念からのみではなかつたのである。蔭では幕府の御声掛りがあつた、と云う事が出来る。幕府と神沢清助とはつながつていた。
瀬名村はその事を、百も承知していた。駿府代官所や、幕府勘定所に於いて訴上の度に、神沢清助を強く非難しているが、その非難は実は、彼を通り越して、幕府に向つてなされているのである。幕府側も瀬名村が拒否する、真の理由はわかつていたのではあるまいか。恐らく瀬名村始め関係各村は、あらゆる手段をとおして、事業の中止を、計画の撤廃を画策したものと思われる。
その後地元の請負人を立てて、山にトンネルを掘り、長尾川を浅畑沼へ切り落そうと云う計画が出て来た。川合の増福寺を会場に、何回か請負人と、地元村役人との交渉が持たれた。しかし、地元各村の考えは変らなかつた。
この「新川一件願書差出し控え帳」も、天明3年2月5日、柴村藤三郎様御役所へ御呼び出し、云々、の一文を以つて、終了している。勿論一件はなおしばらく続くのであるが、この計画も取り止めになるのである。度々言うように、すべてが、地域の猛烈な反対によるものであつた。
ここで、新川一件の控え帳のわきに記されている、一文を披露したい。そこには次の如く書かれている。
「この訴状は、新川一件初年より年来の儀、日記相改め、その節々仰せ渡され等まで、委細に書き記し置き、この下書きを以つて、公儀へ差上げ候訴状、出来申し侯。この書付3ケ村名主組頭、銘々写し置き、わけ呑込み合い居り候ように致すべき事。」
地元村役人の間に、くい違いがあつてはならぬと、固くいましめ合つていた。
最後に「駿河国新風土記」(河野通泰・新庄道雄──文政13年)の記載する一文を引きたい。
「新掘川(新川とは別)は長尾川とも云う。この川竜爪山より出て、ここに到つて巴川と合流する所なり。この川、洪水の度毎に土砂を押出して、巴川を押埋め、浅畑沼廻り一万二千石余の村々水溢れて、年々作毛を損じ、10年一作の地なりと云えり。然るに享保年中江戸の人、神沢清助、この沼と長尾川の川原の空田の地を、新田に開かんことを公命を蒙り、この川の落合の土砂を浚つて沼を埋め、田となさんとて数年力をつくし、少しく御高入りの地となり、反高場など云う所も出来たれども、一夜の大雨にも、この川の土砂を押出し、巴川の水流を埋めて、数百日の功むなしくなりて、村々の水損もやむことなく、この土砂を浚て両岸の堤に上ぐるに、置きあまり小山の如くなりて、その余はこの村内の田畑を村々にて買い取り、土砂の置場とするに至る。
然るに寛政年中、御代官野田松三郎支配の時、手代山下五四郎、この沼廻りの村々とはかり、巴川瀬直し才覚金というものを調達せしめ、その利足金の内をもて、このほとり年々川底の士砂を、浚いしめしより20余年、水溢れの患まれにして、古田の損毛なきのみにあらず、沼新田、反高場等の田地、全く作毛の場となれるは、山下氏の功なりというべし。浅畑沼廻りの水溢れとなるものは、この川の土砂を押出すによりてなり。」