金山権現は、竜爪山上にいくつか祀られている、末社の一つである。末社にはそれぞれ祭主があつて、この社は神官、平山の滝家の持ち宮であつた。いずれも祠程度小社である。
 この社は黒川山との地境に祀られていたが、その場所は御林内であるとして、炭焼村──黒川村──の人々が、文化4年11月21日、社屋を取り壊し、神幣や棟札等まではぎ取つて、神主滝家まで乗りこんで来たのである。
 何故炭焼村の人々が、このような強硬手段に出たのか、不明であるが、やはり両山の境界は、昔から入つた入らぬで、感情的なもつれが、ずつとあつたのであろう。
 平山滝家にても、あまりの事におどろき、たつて幕府評定所へ訴上となつた。以下評定所に於ける済口証文と、更には神官滝大和正の、この事件の記録である。
○差し上げ申す済口証文の事
 文化4年の11月に事件が起り、すぐ評定所へ出訴したが、吟味は翌年となつた。更に吟味中に扱い人(仲介者)が入つて示談になつたのは、更に翌年の文化6年の暮の12月であつた。
 金山権現は、安永元年山崩れの時に、本社を二十間ほど下げて、造営したのであるが、この古社地の跡へ立てられていた。その場所は両山をまたぎ、済口証文によれば、元禄年間の山論の時に、社地として認められている所と云つている。その事を炭焼村は知らなかつた。今度の一件は、そのような次第で起きたのである。と云う事で、炭焼村が詫を入れて収拾されたのである。
 そして仲介者が入り、権現社は炭焼村で造立し、滝家へ渡すと云う事になつた。しかし表面上はそのようにして治つたが、内心では、平山側に侵犯されたと云う気持が、炭焼側には強く残つたのではなかろうか。平山側とて同様であつた。
 ここでも、元禄度の裁許筋と云うものが、判定の基準になつた。元禄の裁許を示される限り、炭焼村に分はなかつた。
○古社金山権現一件始末の次第
 これは金山権現一件のてんまつを、祭主神主滝氏が書き留めた記録である。平山側は地元意識が強く、総代として平山、長尾、北沼上三村の名主が、名を連ねている。
 文化4年11月に、炭焼村の取り壊しにあつた時も、3ケ村の名主が同道で状況を見届け、又地頭役所へも出頭している。更には江戸表へも同行している。とにかく見分した地頭役人も驚き、地元側としては「神慮も恐れず不法の致し方」と受け止めたのである。
 評定所での御利解(説得)は、金山権現を元の所へ元の通りに、炭焼村で立てて、滝家へ引渡すと云う事であつたが、その立てる場所の事で、話がまとまらなかつた。とにかく一応現地を見た上でと云う事で、一同帰村を命ぜられた。
 翌文化6年に現地見分の上、示談の相談が出来、12月11日双方評定所へ再び呼び出されて、正式に示談が成立した。即ち済口となつたのである。
 その後炭焼村から扱い人を通して、金山社は炭焼村にて造るのが本筋であるが、遠隔でもあるので、経費は負担するので、地元で造つて欲しいと云う、申し出があつた。結局地元にて造る事となつた。炭焼村からは包み金にて、一分二朱差し出されたと記している。
 事件発生から足掛け3年を経て、この一件は終結した。両山の地境い争いは、或る意味では、根が深いと云う事も出来る。なおこの御料林は総反百五十町歩、明治以後私有地に払い下げられ、うよ曲折があつて、現在は本州製紙会社の所有となつている。かつて文化4年平山村と、山の出入りで争つた炭焼村名主、五平次の子孫、真田伍一氏が、奇しくもその管理人となつている。
 尚、関係各村の村役人等の江戸下向は、前後二度あり、平山側の場合、発着の日も入れて、4日掛つている。4日の行程である。勿論すべて徒歩である。
  神官大和正が、寺社奉行へ訴へのため、江戸へ下向した時の手紙である。日付は文化4年12月24日になつている。差出人の1人佐右衛門と云うのは、平山村の時の名主で、宛名の二名は縁者である。
 ここで竜爪山に祀られていた末社について、記して置くならば、「古今万記録」に記されている末社は、次のとおりである。尚万記録は、江戸末期の竜爪神官、滝長門正が書き留めたものである。
山権現
七社山神
大天狗
小天狗
稲荷明神
平山滝氏
清地望月氏
樽村望月氏
布金沢望月氏
布沢滝氏
 尚、拝殿には、若宮八幡と地主権現が祀られている。これ等はすべて古態であつて、明治改元後の神仏分離令によつて、様相が大分変つた。穂積神社の社名も明治3年に改称されている。
 ついでながら、大天狗とは普通の天狗、小天狗とは烏天狗をさすと云われている。太郎坊、次郎坊と云うのも、その事であると聞いている。