助郷と云うのは街道交通の為に課された夫役の事である。東海道のような主な街道では、各宿場の継立て人馬の不足を補うために、近隣の郷村に、夫役を課したのである。
 この助郷には、常に出役する「定助郷」と、特に大通りの時とか、定助郷に支障のあつた時に、代つて出役する「代助郷」とがあつた。
 この役も、時代と共に交通量が増加し、該当の村々は、その負担増に悩まされていた。
○差し上げ申す御請書の事
 これは天保4年に、地頭代官所宮ケ崎役所へ、提出された上申書である。──小島藩は府中宮ケ崎に、実務処理の役所を置いていた。──天保4年と云えば、幕末も次第に近くなり、東海道の交通も、日を追つてはげしくなつて来た。時勢はまだ平穏ではあつたが、全体に何となくせわしくなつて来た時代である。
 各助郷の村々も、日増しの交通量の増加にあえいでいた。すこしでも助郷の代替えを願つていたのである。平山村は助郷免除の村になつていたが、そのような情勢の中で、次第に無関係ではいられなくなつてきた。この文書は、地頭からの問合せに対し、代官所へ差し出された上申書である。
○助郷免除嘆願書
 先に述べたように、次第に東海道の通交量が増加し、負担に耐えかねた助郷村々は、しきりに代助郷を申請し、自村の負担の軽減をはかつた。そのようなわけで、いよいよ平山村へも代助郷の指名が、されて来たのである。
 このような指名は、天明7年に一度なされている。この文書が提出された天保9年より、51年前の事である。その時の免除嘆願書に、実は平山村を象徴するような、有名な言葉が1つ書かれている。それは何かと云うに、「狼が出る平山村」と云う言葉である。文中の「(平山村は)奥山入りにて狼多く、夜に入り候ては、村の用事弁じ申さず、云々。」の言葉がそれである。
 平山村に天明の当時、狼が出たかどうかは不明であるが、恐らくそのような事は、あまり無かつたであろう。出たとしても、それは野犬の類ではなかつたか。これは多分に、貧村のイメージを深める為の、ゼスチャーであると考える。当時の村役人は、村をことさら、貧村寒村として、藩や幕府の役人に売り込まねばならなかつた。そのようにしなければ、代助郷に駆り出されることとなる。それは大変難儀な事であつた。
ふじき
 百姓の夫食──食事のこと──は雑穀が主で、米は一粒もなく、時には彼岸花の根や、葛の根を掘つて食べたと、書いてある。これも嘘ではなかろうが、ほんとの飢饉の時であろう。彼岸花の球根は、一般には食べられないと思われているが、実は食べられるのである。それをすりつぶし、何回も水にさらして、毒性を抜いて食料とする。葛の製法と似ている。
 一体に彼岸花は、飢饉食として、入唐僧によつて、中国から持ち帰られた、とも云われている。
 とにかく額面どおりではなくても、平山村が貧村である事に間違いはない。村内の本百姓56戸(文政12年)藩庁への貢納、わずか二十六石九升であつた。
 尚明治2年にも一通提出されているが、形式は全く変りがない