竜爪権現社人中から、幕府役人へ差し出した口上書二通を、ここにあげた。いずれも見分の役人の下問に対して、提出されたものである。元禄2年提出の口上書は、竜爪秣場争論の、裁許条々の中に、対応する箇所がある。
安永3年9月提出の口上書は、御林改めの役人へ差し出されたもので、御林とは黒川山御料林の事で、幕府の直轄地である。伊豆韮山代官所の管轄に入つている。従つてこの下問は、山の向う側からなされたものである。
○差し上げ申す口上書
この口上書は先に述べた如く、元禄2年の竜爪山秣場争論の時に、評定所見分の役人に提出されたもので、意義深いものである。見分の役人の下問は、1、竜爪権現の社地(境内地)についてと、2、竜爪権現の祭祀についての二点である。
この口上書の意義は、戦後──戦国時代から織豊時代を経て、徳川氏による天下統一──竜爪権現社人からなされた、最初の公的文書である、と云う事である。竜爪山の歴史を考える上で、元禄裁許条々と相応じて、貴重な文書である。
恐らくこれらの人々は、天正10年武田氏滅亡の後に、この山に住みつき、ずつとなりをひそめて来たのである。その人達が山上の祠を守り、やがて社人となつた。従つて口上書は慎重に、自分達の過去については、さりげなく書かれている。或はまだ落人狩りの恐れを、持つていたのであろうか。
見分の役人に文書を提出し、それを何事もなく受理された事は、1つには自分達の身柄を保証された意味もあつた。武田氏滅亡から100年余経つている。その人達は、始めて身の安全を確かめたのであろう。そうなつてみると、冬寒気の強い、しかも不便なこの山上に住む事はなかつた。社人達はその翌年から、早々に麓の村々へ、居を求めて下つて行つた。
さてその事はしばらくおき、この記すところを読むと、竜爪権現が、当時も厚い民間信仰の山であつた事が、よくわかるのである。
ここで付言するならば、この口上書と更に一書、権現の記録が、同時に提出されている。権現社のいわれ(歴史)について、下問があつたものと思われる。竜爪権現の古態を知る上で貴重な資料であると思われるが、残念ながら現存していない。
更に黒川村(炭焼村とも云う。現清水市西里)からも、地境について下問があつた。同村からも、口上書が提出されているわけである。
○竜爪山社地の事
この文書は、御林改めの役人へ提出されたものである。文面は元禄2年に、見分の役人へ提出されたものと、全く似ており、このように前の文書を踏襲するのは、よく見られるところである。
安永3年何故御林改めになつたのか、不明であるが、或いは安永元年8月に大きな山崩れがあり、これは年来稀な大暴風雨であつた。権現社も大きな被害を受けたが、御料林も同様であつたかも知れない。その被害状況の見分であろうか。或いはもつと一般的な調査であろうか。
一体に権現社地の竜爪平は、御料林との境界が必ずしもはつきりしないのである。勿論社地は元禄8年から小島領であるが、もつと古い呼び方に、「黒川山竜爪平」というのがあり、かつては黒川山に所属していたような、印象もうける。
ともあれこの口上書にも、権現参詣者の事が書かれている。参詣者が茶代や木銭等を置いて行つても、格別の助成にはならないと言つている。これは一面、収益をなるたけ少な目に、印象づけようとしているのであろうと思う。
尚文末署名の所に、6名の神官の名が連ねてあるが、始めは4名であつた神官も、そのうちから二家が分家して、6名となつたのである。