4、金山権現一件
差し上げ申す済口証文の事(下書き)
差し上げ申す済口証文の事(下書き) 則沢・池田康明家蔵

1、
松平丹後守領分、駿州庵原郡平山村、竜爪権現祠官滝大和より、江川太郎左衛門御代官、同州同郡炭焼村名主五平次外4人を相手取り、理不尽の出入りの趣、去る卯年11月中、松平右京冗様宅へ出訴奉り、同辰正月13日御差し日、御尊判頂戴相付け候に付き、相手方よりも返答書いたし、当日双方御評定所へ罷り出、追々御吟味中、平山、長尾、北沼上3ケ村よりも訴状差し上げ、一同御吟味に相成り、追々引合人等召し出され、お糺しの上、地改め差し遣わされる趣仰せ渡され、一と先ず帰村仰せ付けられ候処、今般地改め御役人御出役御見分、猶場所に双方掛け合いの上、熟談内済仕り候趣意、左に申し上げ奉り候。
1、
訴訟方平山村滝大和申し立て候は、竜爪権現末社の内、同人持ち金山権現社の儀、本社造営修復の度々、遷宮仕来り候に付き、安永元辰年山崩れ以前の古宮地の内、本社跡へ建て置き候処、炭焼村御林の差し障りに相成り候由を以つて、右村方にて取り壊し候始末は、元禄度の御裁許筋を、炭焼村相弁ぜざるより事起り候えども、今般一同立ち合い、場所見届け候上、当時の姿にては、炭焼、平山両村地内へ相掛り候。年来これ有り候場所にて、取り壊し候粗忽の段、炭焼村より相詫び候上は、扱い人貰い受け、大和方にて再建いたし申すべき事。
1、
訴訟方平山村外2ケ村、申し立て候山境の儀は、御見分一番杭より、南北社人詰め小屋中央へ見通し、それより拝殿中央へ引きつけ、同所より本社参詣道筋を登り、同所中央より右、社地中央へ見通し、それより双方境引きの間を登り、御分間三十六番打留め杭へ引きつけ、山境の心得。本社北方末社の分、並びに社人詰め小屋とも、これ迄のとおり建て置き申すべき事。
1、
竜爪権現は、安永3午年御林改め以前も、年久しく平山村進退仕来り候に付き、以来とてもこれ迄のとおり、右村持ちと心得申すべき事。
1、
右権現参詣道北側並木は勿論、拝殿並びに社人小屋最寄りの木品は、これ迄御用木御伐り出しの節々、炭焼村にても先格のとおり、根伐り御免の儀、其の筋へ相願い来たり、御聞き済みこれ有り、その上寛政3亥年、炭焼村御支配役所より同村へ、御林帳にも社用に付き、右権現社役の者願い出候はば、下さるべき旨、御認めこれ有る上は、これ迄のとおり、以来とても同様相心得、なお平山村役人も、一同相願い申すべき事。
1、
社人墓所の儀は、これ迄の通り差し置き、御林反別の外と心得申すべき事。
1、
右の外双方申し争い続きの儀は、扱い人貰い請け候事。
右の通り取り極め候上は、去る去る卯年、双方村方より御見分御役人中へ差し出し候御請書の通り、いよいよ山境の儀も、元禄度の御裁許筋に相違御座無く候間、以来境筋紛れざる様に、一同立ち合い、参詣道筋を除き、其の余はそれぞれ境杭を打ち置き候筈、竜爪権現神主、祠官一同得心の上、取り極め候上は、双方聊かも申し分無く、和融内済仕る。偏に御威光と有難く仕合せに存じ奉り候。然る上は、右一件に付き、重ねて御願いの筋、毛頭御座無く候。依つて扱い人一同連印、済口証文差し上げ申す処、件の如し。

文化6巳年12月11日
松平丹後守領分
 駿州庵原郡平山村
  竜爪権現祠官  滝  大和
組頭  与 市
 追つて訴状差し上げ候
  北沼上村
   組頭 市右衛門代兼
  長尾村 名主伊左衛門
江川太郎左衛門御代官所
 同国同郡炭焼村
  組頭 喜兵衛
  百姓 庄 蔵
  同  庄左衛門
  右3人代兼
  相手 名主 五平次
     同  与左衛門
御 評 定 書
(原本平山滝家蔵)
金山権現一件記録
金山権現一件記録
左記
 文面
 平山
 瀧家蔵
金山権現一件記録 文面

 時に文化4卯11月21日に、同郡炭焼村の者共、名主五平次、同与左衛門、組頭喜兵衛、百姓庄蔵、庄左衛門、右の者共竜
こわ
爪山古社金山権現宮を、御林内などと申して打ち潰し、神幣棟札奪い取り、右の社打ち潰し候て、同じく亦右庄蔵、庄左衛門両
人の者共、拙宅へ参り申し候て、両人の者共申し候は、今日右古社宮を、炭焼村にて方附け申し候と、私宅へ届け、甚だの事を
申し来り候につき、拙者も驚き入り、直ちに22日には、当村名主、長尾村名主、北沼上村名主、この3ケ村へ届け申し候処、
こわ
右名主方拙者同道にて、早速竜爪山古社へ登山致し、立ち合い右の仕方見届けし処、金山権現取り潰し、神幣、棟札等奪い取り、驚き入り早々下山致し、余儀なく、右の始末を府中宮ケ崎、地頭様御役所へ、3ケ村名主大和同道にて、罷り上がり御届け申し上げ候所、御役所御役人中も驚き入り、同23日には御見分を仰せ付けられ、御登山成され、名主中、大和右の御社御案内申し上げ候て、御見分を受け奉り候処、谷間へ投げ捨て、神慮も恐れず不法の致し方、御役人中も御見届け遊ばされ候。下山成され候。
 その上御役所にても、私共の方種々御吟味御尋ね御座候処、兎角御当地にては、らち明き申さず候に付き、拠ん所無く、江戸表御屋敷まで罷り出で、御寺社奉行様御差し出しの儀、御地頭様へ相願い申し上げ侯て、漸う寺社御奉行所、松平右京亮様へ相願い出申し候て、御糺しを受け、大和たつて相願い申し上げ候て、御尊判頂戴致し、理不尽の致し方故、炭焼村相手取り、右御判物を相附け申し候て、江戸表へ右の者共、召し出され御吟味、炭焼村の者共受け奉り候処、甚だ宮の始末の儀御吟味に相掛り候処、恐れ入り、何とも炭焼村の者共、御上へ申し上げ訳様もこれ無く、誠に恐れ入り御詫ばかり申し上げ候処、御吟味御役人
こわ
様、炭焼村の者共へ申しつけ候は、とかく我等とも、此の度の次第は理不尽故、右打ち潰し候宮の儀は、元場へ元形の通り造営致し、大和方へ相渡し申すべしと、仰せ付けられ候処、相手方申し上げ候は、此の度平山村炭焼村山境相分り申し候故、古社へ金山権現宮は造営致すべし。大和方へ仰せの通り、宮は相渡し申し遣し候と、種々理不尽ばかり申し、相分り申さず。次に御留役様仰せ付けられ候は、宮の儀は、地元相分り申し候上は、炭焼村より右形の通り、御宮造営致し、大和へ相渡し申すべき旨仰せ渡され、炭焼の者共畏れ奉り候。
 右の趣、大和へも御利解仰せ聞かされ候は、山境地面相分り申し候ての事に、いずれにも致すべき旨仰せ聞かされ、大和承知畏れ奉つて、双方山境並びに御社儀、御見分に相成り候と、江戸表を立出で、帰村致し、
 同年文化巳年11月7日に、いよいよ江戸御公儀様御見分、御役人中様御先触れ書仰せ付けられ、6日の御先触れ書にて、7日に当方名主佐衛門宅へ御着、御宿願いの儀双方より致し、佐衛門宅に御逗留遊ばされて、直ちに8日には、早速竜爪山へ御見分に御登山遊ばされ、山元3ケ村、炭焼村名主中、並びに大和一同、右の境筋御案内申し上げ、御見分を受け、御分間杭を打ち立て、御杖並びに御見番相立て、双方山境御見分、御分間杭打ち立て成され、平山村へ下山なされ、同9日、10日、11日、双方へ御吟味御利解仰せ渡され、又ぞろ13日に御山へ御登山遊ばされ、右の場所等御見分成され、然る処、社人墓所の儀、大和へ御尋ね御座候処、墓所の分相廻れと仰せ付けられ、その時大和墓所の分内へ入り、五間四方も丸く相廻り申し候て、御覧に入れ候えば、御見番を御振り成されて、いよいよ御見届けに相成り申し候。
 右墓所の所は、除地と相成り、御林外に平山地内に、仰せ渡され候。
 同14日に、双方に内済熟談を仰せ渡され、内済の済口、御役人中様御認めこれ有り、御下書仰せ付けられ、扱い人立ち入
れ、隣村柏尾村名主太右衛門、押切原村仲右衛門、相手方隣村葛沢村源右衛門、大平村与五右衛門、河内村文左衛門、土村重右
衛門、右の者共扱い人立ち入れ、内済の意趣相調え、一同承引仕り候て、同12月5日に、江戸表へ双方罷り下り、5日の出立
にて、8日に江戸着致し、9日に双方御届けに右の御掛り、松平右京亮様へ罷り出、差し御届け申し上げ候所、直々同日双方
共、内済の趣意御糺し御吟味御座候て、御吟味一通り受け奉り候処、同日直々来る13日の御評定所へ、双方罷り出申すべき旨
仰せ渡され、一同御請け書差し上げ申し候て引き取り、いよいよ13日明け六ツ時、御評定所へ双方罷り出、御糺し御利解仰せ
渡され、済口証文差し上げ、則ち御公書同前に相認め、御下知を以つて、第一滝大和名前印形、村方名主代組頭与市印、北沼上
村代兼長尾村名主伊左衛門印形、右3人の名前印形にて、炭焼村は名主五平次、同与左衛門印にて、拝答印形ばかりにて、御
かか
懸り様、御評定所様へ、二通別紙に差し上げ、御聞かせの済み、漸う熟談相調い、双方相済み申し候て、引き取り申し候。
 尤も大和儀は、右御判物御連印御懸り様始め、御消印相願い、直々同日より御連印様の分、御加印御消し願いに、順々差し上
いとまご
り申し候て相済み、右御判物は右京様へ差し納め、御受け取り遊ばされ、いよいよ相済み、引取り申し侯。御暇 乞いなり。
 同22日に江戸表を出立致し、25日に府中宮ケ崎まで着仕り、26日に帰宅仕り候。
 文化7午年2月、右済口の趣意、書面の通り、扱い人柏尾村太右衛門、葛沢源右衛門、押切原村仲右衛門より、長尾村名主伊左衛門、北沼上村組頭市右衛門、平山村名主佐右衛門、右3ケ村名主方を、扱い人よりまたぞろ頼まれ、大和宅へ右3人の御方参られ、先達て炭焼村の者共打潰し申し候古社権現宮の儀は、扱い人貰い受け造営いたし、大和方へ相渡し申す筈に、双方相極め申し候処、扱い人の者共の儀は遠方故、平山3ケ村の役人中、扱い人方より相頼み申し候に付き、拠ん所無く、大和も3ケ村役人中へ、相任せ置き申し候て、右宮の儀、村役人中御世話を成し下され、いよいよ元形の通り、古場所へ再建致す積りに、右扱い人より詫び金として3ケ村役人中取り次ぎ、大和方へ相詫び、包み金にて一分二朱、大和受け取り、右の金子、宮造営差し加え金に致し申し候。
こび
 3月4日より金山権現宮へ取り掛り、村役人と相談、村方木挽き安右衛門へ相渡し、大工手間共に渡しに致し、3ケ村役人中に相任せ置き、人足など迄も、大和方にては差し構い申さず、いよいよ元場所へ、元形の通りに御宮造営致し候て、大和方へ受け取り申し候。
 尤も右宮造営修復の木品は、府中宮ケ崎御役所様へ、大和並びに3ケ村名主立ち合い相談の上、御伺い申し上げ候て、3ケ村
まとば
地内的場にて、木品は名主共伐り取り世話に致し呉れ、いよいよ木品相調い、急に造営致し呉れ候処、10日迄に出来立ち仕り、同11日には、3ケ村名主中立ち合い、大和方へ右宮受け取り、遷宮相済し、右の通り早々相済み申し侯。
 時に文化7午年3月、祭日前に本社権現宮破損に付き、えん側通り取りつくろい修復仕り、棟木等取り替え致し申し候に付き、先規の通り、古社金山権現宮へ、本社神躰を引き移し置き申し候て、本社修復に取りかかり、いよいよ棟木等取り替え、破
しきた
損修理出来致し、同15日御祭日夜に、社人中立ち合い、古社宮より本社へ遷宮引き移し、先規仕来りの通り、滞り無く相済
くみがしら こまえ
み申し候。少しも相違の儀御座無く候。尤も三ケ村名主、与 頭、小前総氏子まで立ち会い、遷宮相済み申し候。但し修復人足等、諸入用の儀は、此の度は本社の分、3ケ村にて世話の儀致し候。
 金山権現宮造営金の儀は、大和より相出し、世話人足、木品の儀は、村方にて致し呉れ候。但し宮出来立ちの儀、渡しに仕り、金子一両一分にて相渡し、大和構え無し相渡しに致し、木挽き、又は大工手間、雨天かれこれに付き、殊の外相掛り、極め外に、又金子一分外に相出し、都合金子一両二分に相渡し、古社宮ようよう出来立ち仕り、相済み申し候。念の為此の如くに御座候。
文化7庚午年3月17日
滝 大和 藤原 正永 印
 丑の41歳頃なり
(原本平山滝家蔵)