第2節 延享縁起
 延享縁起と寛文縁起との違い
 では、その延享縁起について考えることにする。まずこの縁起を復習しておこう。再び駿河記を例にとる。
 「延享の頃、小川の奥樽村に権兵衛という樵夫があった。気が狂ったように口走っていうのには、『私は竜爪権現である。願いがあれば我に告げよ』といって、毎日浜に出て髪を洗い、身を清める。病人が道端で権兵衛を待っていて祈ると、病気が治る。それからは多くの人々が彼を信心した。そのために沢山の財産を得たので、社を山に遷し立てた。また吉田家の許状を受けて神職となり、滝紀伊を名乗った(後略)」。

 延享縁起は寛文縁起と矛盾することが多いことは前にも記した。
 改めて両縁起の相違を表によって比べてみよう。
寛文縁起と延享縁起の相違点

寛文縁起
延享縁起
権兵衛
神がかり
竜爪権現の役割
権兵衛の役割
徳川家康の記述
内容
社人の職
受領名
財宝
武将の子
竜爪権現使いの白鹿が原因
大活躍(主役)
どちらかといえば脇役
くわしい
くわしい
竜爪権現の指名
な し
何も触れてない
樵  夫
権兵衛自身で神がかり
一回だけ名が挙げられる
    (完全に脇役)
主  役
な  し
きわめて簡単
権兵衛自身の意志
滝 紀伊
人々が権兵衛を信心して、権兵衛は財宝を得る

 2つの縁起を比較するとき、もっとも特徴的なのは竜爪権現の役割が延享縁起ではきわめて小さくなっていることである。
 そして、竜爪権現に代わり、権兵衛が主役を演じるようになる。延享縁起には竜爪権現の名は一度しか現れない。
 その竜爪権現も権兵衛が神がかりで呼び出した神だし、寛文縁起と違い、権兵衛が社人になるのも彼自身の意志である。寛文縁起で竜爪権現が徳川家康のために働く部分もないから、延享縁起は上に見たようにまことに簡単なものになる。
 そのかわり延享縁起は無味乾燥である。面白みが少しもない。権兵衛が神がかりして、竜爪権現の神職となり、滝紀伊となったことをたんたんと、というより事務的に記しているだけである。
 もう1つ特徴的なのは、財宝について述べている部分が延享縁起にあることである。これは寛文縁起にはない記述である。
 そして最後に、寛文縁起が権兵衛を武将の子とするのに、延享縁起では樵夫である。なぜこのような違いが生じるのか。
 滝紀伊なる人物は延享の頃にはいなかった
 まず考えなければならないのは、延享の頃に滝紀伊を名乗る神官が存在したか否かである。
 このことを検討するにはまこと好都合なのだが、延享はわずか4年しかなかった。そして、延享の前には寛保があり、後ろには寛延という年号が続く。
 したがって、先ほどの望月・滝六氏の受領名の変遷の表の中に、この延享年間に滝紀伊なる人物が滝氏三氏の中にいるかどうかを確認すればよい。
 まず平山滝氏では延享に滝伊勢・正好が上京している。また、享保年間には、滝大和・正定がいる。その実在は2人とも萬記録などの文書から確認できる。滝紀伊が平山滝氏に存在する余地はないといえる。
 吉原滝氏と布沢滝氏ではどうか。
 このころは、吉原滝氏には滝摂津・正光、布沢滝氏には滝周防・正次がいる。
 滝摂津と滝周防とも、吉田家に公認された神官であるから、年令的にも3、40歳になっているだろう。とすれば、この両氏の中にも、延享年間に滝紀伊なる人物が介在する余地はなさそうである。
 延享の滝紀伊は存在しなかったと結論を出しても差し支えはあるまい。
 ところが、この原稿をほとんど書き上げた段階で、吉原滝氏の系図(過居帳の写し)を入手することができた。
 それが227ぺージ(s)に記した吉原滝氏の系図なのである。
 それによると、延享年間に滝紀伊なる人物が存在することが記されている。
 とすれば、延享縁起の権兵衛はこの滝紀伊ということになるのだろうか。私はこれを否定するのだが、これについては後に述べることにする。
 寛文の権兵衛の神がかりが延享縁起の材料
 次に縁起の内容である。樵夫権兵衛が気が狂ったように口走った「我は竜爪権現である云々」とはいかなる意味であろうか。
 竜爪権現は寛文の権兵衛の神がかりによって出現した神である。私はその権兵衛が実際に神がかりしたとき、やはりこのよ
ヒョウエ
うなことを口走ったのだろうと思う。というのは、巫女や神霊現象をもたらす人物に神が憑 依(乗り移ること)したとき、権兵衛とよく似た行動を取ることが多いからである。
 たとえば幕末から明治にかけて多くの神道が成立した。金光教、天理教、如来教、黒住教などである。これらの神道は多くの場合、ある個人が神がかりし、それがきっかけとなって創唱された神道である。
 このうち如来教の開祖となった一尊如来きのは、延享の権兵衛よりも60年ほど遅れた享和2年(1802)に神がかりし、自分の体には金毘羅大権現が降った、といっている。
恍 惚
ウシトラ
 大本教の出ロナオの場合は延享の権兵衛にもっとよく似ている。明治25年にトランス状態に入ったナオは 艮 の金神を名乗り、寒中で水をかぶった。彼女の行動は権兵衛が神がかりして髪を洗い、身を清めたというのとそっくりである。
 天理教の中山ミキは天保9年(1838)に山伏を招いて寄加持をしていたところ突然神がかりして、天の将軍、元の神を名乗った。
 多分、延享縁起の作者は寛文の権兵衛が神がかりしたときの言葉を、そのままこの延享縁起に持ち込んだのであろう。そして、権兵衛が竜爪権現を神招きしたことに合わせて、縁起の主体を竜爪権現から権兵衛に移したのであろう。
 竜爪権現の倭小化
 寛文縁起では竜爪権現がみずから権兵衛を社人と定めているし、その後半部でも竜爪権現が家康のために積極的に行動したことはすでに述べたとおりである。その後半部では竜爪権現の名はくどいほど出てくるが、権兵衛はまったく登場しない。
 ところが延享縁起ではこれを改め、両者の地位を逆転させた。竜爪権現の名はほんの一回、権兵衛が「我は竜爪権現である」と口走ったときに出てくるだけである。寛文縁起に比べると登場の機会がほとんどゼロに等しい。
 同時に、竜爪権現が徳川家康のために働く部分もすべて削除してしまった。また延享縁起では権兵衛が自らの意志で神官となり、吉田家から滝紀伊の受領名を許されたことにしている。
 このように延享縁起ではすべてが権兵衛の意志にしたがって事件が展開している。
 ではなぜ「滝紀伊」という名を用いたかである。
 これは、前にも記したことだが、私は権兵衛一族や竜爪権現の信者たちに、寛文の権兵衛が延享のころまでには滝三氏の祖であること、そして戦国時代以来、途絶えていた竜爪権現の祭祀を復活させた人物であることが承認されたのだろうと考える。権兵衛が平安時代からの伝統ある熊野権現系、とくに速玉大社・那智大社系の神である竜爪権現を、彼に竜爪権現が乗り移ったのをきっかけに再興したと信じられるようになったのであろう。
 その結果、権兵衛は初代の神官「滝紀伊」の受領名で呼ばれるようになっていたのだと思う。
 その受領名「紀伊」は、吉田家の許可を事後になって得たものであろう。
 「紀伊」の名はもちろん、望月、滝両氏の本貫ともいうべき熊野の属する紀伊である。両氏の祖先は熊野修験系の山伏として、修行地の木曽御嶽山から出発して信濃や甲斐を経て駿河の竜爪山上に落ち着いたのである。そして延享縁起を作成したさい、その「滝紀伊」が延享縁起の権兵衛にも名付けられたと考えられる。
 このようにして作成された延享縁起が、改めて竜爪権現の社地の領主である小島藩を通じて、吉田家に提出された。これを各種の地誌が記載したのだろうと思う。地誌のすべてがほとんど同じ文章で延享縁起を紹介しているのも、私は地誌の作者たちが書類として提出された延享縁起のみを見て地誌に記載した結果だと考えている。
 もう一度繰り返すと、竜爪権現を竜爪権現の縁起の主役から外すこと、これが寛文縁起を延享縁起に書き換える最大の目的だった。
 というのも、延享縁起の作者は神道三部書にはない竜爪権現の実体をできるかぎり倭小化して、吉田神道の意を得ようとしたのである。竜爪権現の名が延享縁起で一回しか出てこないのもそのためである。
 ところで前に説明を保留しておいた吉原滝氏の資料にある滝紀伊であるが、これは姓名が「左門」とあるように、権兵衛ではないと考えられる。
 吉原滝氏の資料はそれぞれの人物について諸官職名のほかに俗名を記している。たとえば、内記が権左衛門、正輔が源太夫のごとくである。もし、この滝紀伊が権兵衛ならば、やはりそのことも書かれているはずだが、紀伊は「左門」とあって「権兵衛」とはなっていない。
 滝氏一族は延享縁起を作成したさい、寛文の権兵衛の神がかりを材料とした。
 それと同時にもともと存在しない延享の権兵衛に滝紀伊の名を与えたのだが、その滝紀伊の存在を系図の上で残しておくために、左門なる人物を滝紀伊と命名したのだろう。
 竜爪権現から穂積大権現へ
 名のみとなった竜爪権現に対し、次に行われた措置が神格の変更である。
 祭神として大己貴命と少彦名命が選択された。そして、神としての権現の名も事実上は竜爪権現ではなく、穂積大権現となった。
 御本社造営之覚帳によると、宝暦12年(1762 延享年間から約20年後)に造立した本社の棟札に「穂積権現」と「少彦名大神」の名が初見できる。この時点では、まだ大己貴命の名は出現していない。
 その後、12年を経て安永2年(1773)に山崩れで崩壊した本社を再建しているが、このときには「穂積大権現」の名と「大己貴命・少彦名命」の祭神名が出揃う。以降は権現名も祭神名もまったく変化していない。
 通説によると、竜爪権現が穂積神社と改称し、祭神に大己貴命と少彦名命を勧請したのは、明治維新の神仏分離令以後ということになっている。しかし、右に見たように、明治維新より百年早く、延享年間よりわずか十数年後の宝暦年間には早くも
カンジョウ
「穂積」の権現名が出現し、さらに10年を経た安永年間には祭神として大己貴命と少彦名命が勧 請されている(勧請とは神仏の霊のわかれを別のところに迎えて祀ること)。
 明治の神仏分離によって変わったのは、穂積大権現が穂積神社と名称が変更になったことのみである。
 宝暦年間ほど古くはないが、私は吉原の滝沢さんのお宅で、天保13年の年号の入った本殿の棟札を、見せていただいたことがある。それは長さ四尺、幅四寸、厚さ五分ほどの杉の一枚板で、表には墨で大己貴命と少彦名命の二柱の神が並書してある。
 なぜ延享縁起は権兵衛を樵夫としたか
 では延享縁起はなぜ権兵衛を樵夫としたのであろうか。
 山伏には斧が必須だった。山林に入れば立木を伐って道を作り、茨などを切り払って進まなければならない。
 この斧を入峯斧という。かつて斧持ちは先達(峰入りでリーダーとなる山伏)の重い役目であった。
 吉田神道の要求を容れ、山伏色を竜爪権現から払拭するためには、権兵衛が山伏であることを完全に否定しなければならない。とすれば、同じ斧を持ってもっとも山伏に近い庶民の生業といえば樵夫である。
 樵夫の生業は山に入って木を伐ることである。その山には神がいる。山の神はみずからが支配する山の木が、人間のつごうによって伐り取られ、持ち去られることを好まない。とくに数百年を経た巨樹となれば、なおさら神はこれに愛着を覚えて、木との別れを惜しんでいる。
 だから伐木には山神の許可を得る必要がある。山神に服従の意志を示さなければならない。樵夫が山中で伐木の儀礼をして、山神に酒を供えたり、木に注連縄を張ったりするのはそのためである。
 伐るべき大木に鎌を打ち込み、山の神の了解を得る。木を山の神からいただくという意味の歌を歌う。木遣りとはもともと木に名残を惜しむ山神の心を慰めるものだったそうである。
 樵夫は山の神の怒りを買わないように数々の山のタブーに従う。たとえば、特別な枝振りの大木を神樹として残す。ある方角を向いた枝を持つ樹は伐らない、などである。山神が宿るような大木を伐ったときは、その切株に梢の青い葉付きの枝を挿し立て、山の神に奉じて許しを乞う。
 木を伐るさいの山神への配慮はそれだけにとどまらない。いったん山から谷に降ろした木を、再び山の上に少しだけ引き上げるようなこともする。これを「山戻し」という。山神の伐られた木に込める思いを、山から木を出す前にもう一度、断ち切るためである。
 そして樵夫は自分たちを守護してくれる山神を、山の守護神として知られる大山祗命や木花開耶姫ばかりでなく、熊野権現に仮託する例もある。精神生活の面で山伏と樵夫は似通っている。
 私はこの斧が、延享縁起の主人公の権兵衛をして山伏から樵夫に転換させる発想を生んだ道具だったと思う。
 延享縁起は創作された
 以上述べたことからもわかるように、延享縁起は創作されたものであり、現実に延享年間にこのような事件が発生したのではない。
 前に権兵衛と藤兵衛との争いのところで記したように、権兵衛が竜爪権現を神がかりの状態で感得し、その託宣を述べたときの状況が延享縁起に持ち込まれてきていると考えられるからである。
 すでに記したように、寛文縁起から延享縁起に変更した主目的は2つあった。
 1つは吉田神道の厳しさを増す神道統制に対応するために、竜爪権現のような瞬昧な神格が許されなくなった。
 そのために大己貴命と少彦名命という日本書紀はじめ、神道三部書という吉田家がもっとも基本の神典として尊ぶ書物に記載されている神を導入することであった。
 2つには、このように竜爪権現の神格を変更することで、表面上は竜爪権現の名称を最小限の形で存続させることにあった。
 それには竜爪権現の地位を大幅に縮小させなければならない。これが寛文縁起と大きく異なる延享縁起の竜爪権現の取扱いになって現れているのである。
 その後の社人たちの努力と竜爪権現の隆盛
 寛文縁起から延享縁起への変更を最後に、それからの竜爪権現は発展期を迎えたようである。社人の望月氏や滝氏の周囲にも、とくに異常を示す動きはない。
 藤兵衛との路線対立のような内部の争いも解消したらしく、吉田神道からの要求もほぼなくなったらしい。
 文献にも口承にもそのようなトラブルを示すようなものは何も見当たらないからである。むしろ、竜爪権現が武士や町民、農民など各層からの崇敬を得て、隆盛を享受したことを示す史料が多くなる。もちろんこれには社人たちの努力があったことも忘れてはならない。
 以下、これについて少し述べよう。
 竜爪権現に、武士は「武運長久」を、町人は「開運長久・盗賊除け・火難除け」、漁民は「毎月毎漁満足」を祈った。猟師は獲物の豊かなることを祈願した。忘れられがちだが竜爪権現は山のみでなく、海の神でもあった。「猟」と「漁」の神だった。
 農民に対しては、豊作・虫除け・害獣除けのご利益があったという。
 参拝者からは永久祈祷の依頼を多数受けている。
 数多くの護符も配布している。右手に剣を、左手に縄を持ち、火炎を背負った天狗の姿が刷られているものである。天狗は山伏の姿から創られたという。権兵衛はこのようないでたちだったかも知れない。
 駿府の町中には、時代は定かでないが、これが3千7百余枚が配られたという。望月さんの四代前の望月多盛は、これを伊豆七島にまで毎年のように出かけて配布していたそうである。
 天狗のお札∧吉原滝家版木による∨
天狗のお札(吉原滝家版木による
 当時の交通事情を思えば、この旅行がいかに困難を極めるものかは想像に難くない。そのような困難をものともせず、竜爪権現の御利益を説き、信者の維持に努めたのである。旺盛な使命感である。
 私はお札を望月さんや滝沢さんに見せていただいた。望月さんのお宅にはその版木まで残されていた。かなり使い込んだものらしく、天狗の台座が少しすり減っていた。萬記録にも版木が使い物にならなくなり、再刻したという記事がある。
 平山には明治19年に大火があった。50軒ほどの家のうち、3分の1の27軒が焼けた。炭焼きの火が原因だった。昼火事だった。男たちは山仕事や農作業に出払い、女子供と年寄りだけが家に残っていた。消火が遅れ、急を聞いた男たちが戻ったときは、巨大な火の塊があちこちに出現し、突風が突風を呼び、手の施しようがなかったという。神家とその裏山の二町歩が焼け、かろうじて焼失を免れたという祈祷帳には、遠く伊勢国津の願主の毎月祈祷の記録もあった。
 武士の崇敬も篤かったらしい。相良藩主田沼玄蕃頭の祈願状もあった。駿府城代、駿府町奉行、久能山神主の榊原氏はじめ、沼津藩や小田原藩などの封紙もあった。
 松平姓の大各が参勤交代の途次、竜爪権現に参詣したという伝承もある。
 次のような話が残る。
 病人が祈祷を受けるために、夜中に竜爪権現に登ると、社人たちはただちに夜道を提灯を灯し、山駕篭で社に駆けつけたという。重病人のときにはその山駕篭に乗せて運び、社人は2時間の山道を社まで歩いて祈祷に駆けつけた。
 記録では八升炊きの大釜に湯を沸かし、1日に数回、温湯を病人の頭にそそいだとある。これを湯祈祷といった。
 また、現在の穂積神社の本殿の立つ位置には、終戦の頃まで雨ざらしのままの寺院の骨組みだけが残っていた。倒壊の危険があったので、取り壊したという。
 神社の社務所にある写真には柱間四間ほどの寺院が写っている。たぶん、これであろう。祈祷所として、病人の平癒や憑物落としに使われた建物らしい。また、萬記録には鐘搗堂も立っていたことが記録されている。
 厨子の中の不動明王
 望月さんのお宅で、私は竜爪権現の御神体との言い伝えがある1b4方ほどの黒光りした厨子を拝見した。扉を開けると、中にはやはり黒々とした小振りの不動明王像が安置されていた。

祈祷所(いまはここに本社が建つ)
祈祷所(いまはここに本社が建つ)
 私はその色からとっさに、この厨子の前で護摩が焚かれていたのだろうと直感した。塗り込まれたような黒色は、護摩の煤だったのだ。厨子が望月さん宅になぜ運び込まれたのか、その時期がいつだったのかは明かではない。
 望月さんは、床の間に置いたのではもったいないと、わざわざこの厨子を納めるために別間を作り、毎日お参りを欠かさない。その下の納戸には神官だった祖父や曾祖父の狩衣や沓、それに和紙に墨書された祝詞集などが大切に保管されていた。
 厨子はこの祈祷所に納められていたのであろう。この厨子の扉を開き、不動明王像の前で、山伏だった望月氏や滝氏は独鈷杵や三鈷杵を振りかざして五体を揉み、燃えさかる護摩木の炎の中、汗を散らせて祈祷をしていた時期があったに違いない。
 実はここにどうしても解けない疑問が残っている。
 それは権兵衛はじめ望月氏や滝氏など権兵衛一族が竜爪権現の社人となった後、誰がこの不動明王への祈祷を担当したかということなのである。
 吉田家から藤原姓を裁許されて神官職となれば、仏教と交わることはもはや許されない。望月氏も滝氏も山伏ではなくなったのである。
 江戸時代の神社には神職とは別に僧侶の別当がいたところが多い。だが、竜爪権現にはそのような人物を思わせるようなものは記録にも伝承にも何ひとつ残っていない。
 萬記録には上に書いたように竜爪権現の境内に鐘搗堂があったという。にもかかわらず、僧侶のいた形跡が一切見出されないのである。これをどう考えたらよいのだろうか。
 戦前には穂積神社では火渡りの神事が行われていた。剣の舞などもあった。これは山伏の伝統を引き継ぐものであり、神職が執り行っても不思議はない。しかし、仏式の祈祷あるいは読経を誰がしていたのか、どうしてもわからないのである。
 私はこの僧侶の役割を果たしていたのは、権兵衛の第四子の三四郎の家系ではなかったかと考えている。
 清地系図によると、三四郎の系統はその後、望月五兵衛・五郎左衛門・重次郎・重吉・五郎左衛門・半蔵・弥平治・五郎左衛門と連なって幕末に至っている。
 前に記したように、清地望月氏は右の俗名を名乗る家系とは別に、伊賀・和泉・左内などの名の社人の出る家系にわかれたのではなかろうか。
 私は五兵衛たち俗名の家系が、家職として僧侶の役割を担っていたのではないかと推定するのである。
 不動明王の厨子を運び込んで来たのは「三郎左衛門」とか「三次(治)右衛門」と伝えられている。さらに望月さんの家に残るいい伝えでは、厨子はその人物に頼まれて「うちでお預かりしている」のだという。
 もし、「三郎左衛門や三次(治)右衛門」名の人物が望月さんのお宅に不動明王の厨子を持ち込んだとすると、それは上に記した望月五兵衛以下の名に似ている。
 私は、神社と寺院が分離を余儀なくされたとき、それまで不動明王への祈祷を担当していた三四郎の家系の人物が、この像の扱いに苦慮し、望月さん宅に寄託したものではないかと考えるのである。  ところで、穂積神社の社務所に明治6年に建設した木造の拝殿の写真がある。人を圧迫するような重量感が、一枚の小さな写真からも十分に伝わってくる。

明治6年に建設されたみごとな拝殿
明治6年に建設されたみごとな拝殿
 この拝殿は御神木の杉を用いたものだった。それをちょうなで一本一本を削り、板や柱にした。
 たしかに、威風堂々としかいいようのない拝殿の姿は、境内にある杉の巨樹を用いなければ、とても作り出せるものではない。
 このころの記録によると、境内の木の総数315本、うち目通り一丈以上のもの54本、一丈五尺のもの2本、一丈七尺以上1本とある。萬記録にもところどころに境内の杉についての記述がある。竜爪権現の歴代の社人の責任として、杉を貴重な財産として管理していたことはこれを見てもわかる。
 建築会社の見積もりでは、明治6年と同じものを造るとすれば、20数億円を要するという。ただし、昭和50年代の話である。平成元年に竣工した現在の鉄筋コンクリートの本殿に約1億円の金額を要したことを思えば、いかに巨額なものであるかがわかる。
 本社は20年から30年ごとに建て替えられてきている。山崩れや台風、腐食などが建て替えの原因だった。神輿も建造された。竜爪権現は豪華な本社を持てるようになったのである。
 竜爪権現を護持した多くの人々
 それとともに私がいいたいのは、竜爪権現の社人たちばかりでなく、崇敬者たちや地元の人々の竜爪権現護持の熱意が、このような見事な本社を実現させたということである。
 神社の維持はこれらの人々の熱心な支持がなければ成り立たない。かつて大名や大商人などの個人の喜捨によって建立された寺社が現在では見る影もなく衰えたり、その所在すら不明となっている例はいくらでもある。宗教は名もない大衆の篤い信仰に支えられてこそ、その存続が可能なのだ。
 萬記録や御本社造営之覚帳には過去の造営が記録されている。そこには造営のたびに、地元の平山村をはじめとして長尾村、北沼上村などの名主、組頭、百姓代の名が記録されているし、府中の大工や木挽、屋根師の名が連なっている。
 ただし、これは平山滝氏のみの史料である。樽村、清地村、布沢村そして吉原村でも、史料は散逸して失われているが、
カギヤク
それぞれの鎰 役(当番の社人)のときには、やはり本社の造営に関わった大勢の氏子や護持者がいたはずである。吉原の滝沢さんのお宅に残る棟札は、平山滝氏以外の社人による造営の乏しい記録の貴重な物証である。
 現在の穂積神社の本社も、長門正のお孫さんにあたる横山もとさんとおっしゃる婦人の篤志によって建てられたものである。
 竜爪権現は望月氏や滝氏の努力が実り、地元の人々の心をとらえ、支持を得ることができた。
 幕末から明治の初めに、竜爪権現の広前に捧げられたお花稲の量が、毎日三俵を下らなかった。
 お花稲は半紙にくるんだひとにぎりの洗米に過ぎない。それが一石二斗とは竜爪権現を信奉する人々が多かったことを、このお花稲の量は雄弁に物語っている。
 先ほど明治19年に平山には大火があったと書いた。この時、平山の神家から壷二つに入った大量の黄金が発見され、平山村では「黄金が吹いた」と大騒ぎになったそうである。
 このような穂積神社隆盛の兆しは、延享の頃に早くもあったのである。
 延享縁起の中に「財宝を得た」とある。何気なく読み過ごしてしまいそうだが、私はこの句の中に、苦労に苦労を重ねてやっと「財宝を得た」のだという社人たちの深い感懐が込められているように思えてならない。
 寛文の初めの幕府の山伏定住政策により、開祖の権兵衛は山伏から社人に転向することを余儀なくされた。そして貧苦と周囲の反対の中で、熊野にゆかりの竜爪山に小さな祠を作り、みずからに降った竜爪権現を祀った。その後も、吉田家の神職統制政策が権兵衛一族の上に重苦しくのしかかっていた。
 短い「財宝を得た」の一句には、寛文以来80年におよぶ権兵衛一族の苦難のすべてがある。重い一句なのである。
 そればかりではない。嘉永7年(1854)に黒船が渡来したとき、竜爪権現は藩主の命令で武運長久を祈った。そして、藩主は三百疋の祈祷料を奉納している。
 この事実は竜爪権現が国家の一大事にあたって、その安穏と静謐を祈る神社として公認されたことを示している。
 竜爪権現の格式と権威は一万石の大名なみ
 最後に小島藩主と竜爪権現の社人たちとの親しい交際を物語る話を紹介しよう。
 まず、望月さんの話である。望月さんはこれを祖父から聞かされたそうである。
 望月多盛が社人のときだった。領主の小島藩主がときどき視察に来る。藩主が休息する家が何軒か定められており、そこへ藩主が到着すると多盛は挨拶に出向くことになっていた。
 多盛の顔を見ると、藩主は「多盛、大儀であった」と声をかける。それだけの言葉で2人は直ちに用談に入った。多盛もとくに仰々しい平伏などもしなかったらしい。
 平山にも同じような話がある。
 平山も小島藩領だった。そしてここにも藩主の立ち寄る休憩所があった。藩主がそこへ姿を見せると、社人の長門正はただちに山駕篭に乗り藩主に伺候する。
 そのいでたちである。袴を着け、腰に脇差を挟み、編笠を被っていた。その態度には悠揚迫らぬものがあったという。
 小島藩は大名とはいえ石高わずか一万石であった。元禄2年(1689)の立藩以来、明治維新による廃藩置県まで常に困窮していた。清水市小島地区に残る数々の古文書には、藩の苛求に反抗する惣百姓一撲のありさまが生々しく描写されている。
 したがって竜爪権現の社人たちが、この小藩にさまざまな機会に献金をしただろうし、藩主もそれを期待していたであろう。
 そればかりか、小島御屋敷が焼失したので、藩命でその再建用材として竜爪山の社木のうち、槍杉30本を抜き伐って差し出したことが記録に残る。
 竜爪権現は小島藩にとり財政上、不可欠の存在だったようである。
 そして幕末にはその豊かな経済力を背景に、竜爪権現は一万石の大名に匹敵する格式と権威を持つに至ったのである。