第二章 瀧紀伊とは誰か
第1節 瀧紀伊は寛文縁起の権兵衛
手はじめに樽望月氏、布沢瀧氏、平山瀧氏から
 清地系図や樽系図、萬記録などをもとにして、上に述べた権兵衛以降、彼の息子から孫にかけての系図の部分の欠史につき引き続き考えてみよう。
 樽系図に権兵衛の次男の権之丞の系図がある。それと清地系図に三男の瀧権十郎(布沢瀧氏の祖)の系図がある。
 これを萬記録に記す平山瀧氏の系図とともに並べて表にしてみよう。
樽望月氏・布沢滝氏・平山滝氏の欠史部分
樽望月氏 布沢滝氏 平山滝氏
権兵衛
 ○権之丞
権兵衛
 ○権十郎
権兵衛
 ○勘之丞
 ×長左衛門
 ×靱 負
滝紀伊・正通
 ×正  久
 ○望月安芸・正満
 ○滝周防・正次
 ○滝大和・正定
○ 実在したらしい人物
× 架空らしい人物
? 実在か架空かどつらともいえない人物
 この表を見ればわかるように、これら三氏について実在したらしい人物と架空らしい人物が、だいたい同じ世代に並んでいる。
 順を追って説明しよう。
 一行目の権兵衛は当然これら3氏に共通する祖だから、三氏すべてに現れている。
 二行目の権之丞、権十郎、勘之丞は樽系図や清地系図、萬記録などに記されていて、ほぼ実在したと考えてよさそうである。だから、これには○をつけてよい。
 問題は太線で囲まれた欄の人々である。樽望月氏の長左衛門と靱負は先ほど述べたように実在が疑わしい。
 平山瀧氏の正久もどうもはっきりしない人物である。
 したがって、これらの人々には×がつく。
 そして、正久の正定の間には誰かもう1人がいてもおかしくないことは説明したとおりである。それで?になっている。
 次の行の望月安芸や瀧周防、瀧大和はいずれも萬記録や樽系図などで存在が確認されている。○である。
 こうしてみると、太線の中に実在が疑わしい人物がいることがわかる。
 私の推測では、権之丞・権十郎・勘之丞グループと望月安芸・瀧周防・瀧大和グループ(○のグループ)の間の不自然な年令差を埋めるために創り出された架空の人物たちが、太線の中の人々の×と?なのである。
 ところが不思議なことがある。上の表をよく見ると、真ん中の布沢瀧氏のところには×の人物も?の人もいないかわりに、瀧紀伊なる人物の名が初めて登場している。あの延享縁起で樵夫の権兵衛が初めて神官となって名乗った名である。
 布沢瀧氏の場合には、あたかも瀧紀伊正通が樽望月氏と平山瀧氏の欠史部分に対応する形で姿を現したのである。
六氏すべての系図ではどうなるか
 さて、瀧紀伊正通が樽望月氏と平山瀧氏の欠史部分に対応しているというのなら、この二氏のみでなくそのほかの四氏、要するに権兵衛からわかれたすべての望月、瀧両氏ではどうなっているのだろう。やはり、瀧紀伊正通がそのような役割を果たしているのだろうか。
 それを見るために大仕掛に展開したのが、六氏全体の表である(以下表(1)と呼ぶ)。
 これは清地系図、萬記録、樽系図、御本社造営之覚帳やそのほかの論文をもとに6氏にわかれたそれぞれの家の受領名を持った人々を拾い出し、これを年代順に組み立てたものである。
 これを見ると、六氏の縦と横の関係が一目瞭然に把握することができるし、あわせて系図の欠史部分がどのように現われるかを知ることができる。
 表(1)を見れば、前で述べたのと同じように、欠史の部分(図の太線で囲まれた部分)に瀧紀伊正通の名が入っていることに気付くだろう。
 ただ、この表には少し説明を必要とするところがある。以下、それを順に述べよう。
望月・滝氏六氏の受領名の変遷(表(1))
時  期 吉原滝氏平山滝氏布沢滝氏 樽望月氏布沢望月氏清地望月氏
慶  長 権兵衛権兵衛権兵衛 権兵衛権兵衛権兵衛

内 記
半之丞
権左衛門
勘之丞
権太夫
権十郎
内 記
半兵衛
権左衛門
権之丞
六之丞
権十郎
三次郎
三四郎
六之丞
権之丞
六 平
三四郎
権 平

内記・正貞
内記・正貞


寛  文 紀伊・正通
(権兵衛)
紀伊・正通
(権兵衛)
紀伊・正通
(権兵衛)
権兵衛
権兵衛
長左衛門
靱負


元  緑
?・正久


宝  永
享  保
摂津・正豊
紀伊・正行
伊賀・正輔
大和・正定
日向
周 防
(滝伊賀
 の別家)
安芸・正満
出雲・正好
 (望月靱負
  の別家)


延  享

伊勢・正好
大和・正則


伊賀
宝  暦 摂津・正光大和・正次周防・正次 加賀・正重大隅・正則和泉
安  永

大和出羽・正久 信濃・政道
数馬
日向・
正幸出羽
佐内

@「紀伊」の名の現れ方が妙である
 「紀伊」が樽望月氏、布沢望月氏、清地望月氏には現れていない。要するに「望月紀伊」という名はないということである。
 そして吉原瀧氏、平山瀧氏、それに布沢瀧氏という瀧氏を名乗る三氏にはすべて「紀伊」の名がある。

A受領名
 享保あたりから以降の六氏の受領名は、ほぼ同じ名を親から子へ子から孫へと受け継いでいる。たとえば吉原瀧氏は多くが「摂津」を、平山瀧氏は「大和」を、布沢瀧氏は「周防」をそれぞれ受領名としている。
 そして、同じ受領名を同じ世代で二氏以上が共通して持つことはまったくない。たとえば、宝暦年間を例に取ると、
吉原瀧氏
平山瀧氏
布沢瀧氏
樽望月氏
布沢望月氏
清地望月氏
摂津
大和
周防
加賀
大隅
和泉

 望月氏と瀧氏が六氏とも、だいたいその家固有の受領名を持っているということは、その受領名を家伝来のものだと考えていたことを示している(受領名は吉田家に対し、まず申請者から希望する受領名を二つか三つ書いて申請し、このうちから吉田家が一つを選択して任命する形式を取る)。すなわち、同じ受領名を名乗ることが慣例化しているのである。

B萬記録による勘之丞の年令
 平山瀧家を開いた勘之丞は、萬記録では元禄3年(1690)に56歳だったとある。ということは、寛文元年(1661)の寛文縁起の成立時には27歳である。

寛文縁起と清地系図からの推定
 さてここでもう一度、寛文縁起を思い出す必要がある。あの縁起の末尾には、瀧権兵衛一家が次のように署名していた。
社人親  瀧権兵衛
同子 六之丞
同子 権左衛門
同子 権十郎
同子 三次郎

 権兵衛の息子が六之丞、権左衛門、権十郎、三次郎となっている。このうち、三次郎を除く3人は、第一章で検討したさいに権兵衛の息子たちの名として現れた名だった。
 また、三次郎というのは清地系図の中にいる三四郎だと推定される。
 この寛文元年に勘之丞が27歳だとすると、ここに署名している息子たちも、勘之丞とは同年代だから、ほぼ20歳くらいの似たような年齢であろう。寛文縁起に署名するには差し支えない年齢であるといえる。
 そして、ここが重要なところだが、清地系図や萬記録などに記載されている瀧紀伊正通や内記、そのほか右に述べた子供たちや孫たちの名を私の作った表(1)にはめ込んでゆくと、前に述べたように、瀧紀伊正通の名がほぼ欠史の部分に入って来るばかりか、それがほぼ寛文ごろに該当するのである。
 それが表(1)の中の「寛文」と記した部分である。
 瀧紀伊が寛文ごろにいるらしい。
 そして、その瀧紀伊と同じころに、寛文の権兵衛は山伏から変身して竜爪権現の社人としての第一歩を踏み出している。
寛文の権兵衛が瀧紀伊だった
 私の考えは寛文の権兵衛が瀧紀伊だろうということだ。
 それを明らかにするのが「慶長の権兵衛(樽の権兵衛)と寛文の権兵衛(瀧紀伊)(以下、表(2)と呼ぶ)」という長いタイトルの表である。これは先ほどの大規模な表(1)を私なりの考えで修正したものである。
 まず、寛文縁起やそのほか樽系図、清地系図、萬記録などで権兵衛の息子とされる人物たちは、系図の上ではこの瀧紀伊の息子として瀧紀伊の下の欄に入れる。
 ちょうど表(1)にある慶長年間の権兵衛とその下の息子たちの欄をそっくり移動して、慶長年間の権兵衛を寛文の瀧紀伊に重ねるということである。
 要するに瀧紀伊を権兵衛と見なし、これまでいろいろな名前で出ていた権兵衛の息子たちを、瀧紀伊の息子と見なすのである。
 こうすることにより、欠史部分がなくなると同時に、系図が寛文の権兵衛(瀧紀伊)から息子たちを経て、実在の人物である望月安芸正満(樽望月氏)や瀧大和正定(平山瀧氏)などにスムーズにつながるのである。
 そして、熊野修験の流れを汲む瀧氏の祖であるからこそ、権兵衛に熊野が属する国の名である紀伊を与えたのだろう(布沢瀧氏のところで太い点線で囲った部分については次に述べる)。
慶長の権兵衛(梅の権兵衛)と寛文の権兵衛(滝紀伊)(表(2))
─六氏の受領名の変遷(表(1))を修正したもの─
時  期 吉原滝氏平山滝氏布沢滝氏 樽望月氏布沢望月氏清地望月氏
この部分が
慶長の権兵
衛(すなわ
ち樽の権兵
衛)に当たる




権兵衛権兵衛権兵衛 権兵衛権兵衛権兵衛
内 記
半之丞
権左衛門
勘之丞
権太夫
権十郎
内 記
半兵衛
権左衛門
権之丞
六之丞
権十郎
三次郎
三四郎
六之丞
権之丞
六 平
三四郎
権 平
この部分が
寛文の権兵
衛(すなわ
ち滝紀伊)
に当たる




内 記
紀伊・正通
(権兵衛)

内 記 長左衛門


紀伊・正通
(権兵衛)

紀伊・正通
(権兵衛)
靱 負
権兵衛


権兵衛
半之丞

権之丞
権左衛門
半兵衛

六之丞
三次郎
三四郎
元  緑
勘之丞権十郎 勘之丞
三四郎
宝  永 摂津・正豊

摂 津



享  保
延  享
伊賀・正輔 大和・正定
伊勢・正好
  ・正則

周  防
(滝伊賀
 の別家)

安芸・正満


信濃・政道
数馬
日向
(望月数馬
  の別家)
伊賀
注:名前が2つある場合はそのまま2段に分けて表記

寛文の権兵街は母方の姓である瀧氏を名乗った
 それでは望月三氏にはなぜ紀伊の名が現れないのだろう。瀧三氏の共通の祖先となる紀伊ならば、望月氏の祖先としても「望月紀伊」の名があってもよいのではないかという疑問である。
 私は寛文の権兵衛は、母方の姓を名乗って「瀧」氏としたのだろうと思う。そして、息子の権之丞には父方の望月氏を名乗らせた。それで樽系図や清地系図では、権之丞の父を紀伊とせずに権兵衛としたのだろうと考える。
吉原瀧氏と布沢瀧氏はどちらが分家か
 ここで述べておかなければならないのは吉原瀧氏と布沢瀧氏のことである。
 すでに記したように、萬記録は吉原瀧氏の瀧伊賀から別家となったのが布沢瀧氏だという。
 しかし、清地系図は布沢瀧氏から吉原瀧氏がわかれたとする。
 この部分については清地系図に混乱がある。
 というのは、清地系図は布沢瀧氏が権十郎から始まり、内記正貞、瀧紀伊正通(寛文の権兵衛)以下の名を記しておきながら、一方で瀧内記は吉原瀧氏だといっている(このことは最後の「終わりの章」でも触れる)。これを信頼して、内記正貞は吉原瀧氏のみとして、布沢瀧氏からは削除したほうがよさそうである。
 もし萬記録の方が正しいとすると、瀧伊賀から別家した瀧周防の前には誰もいなくて当然である。別家する前にその家に人がいるはずがないからだ。表(2)で点線で囲ったのはそのような意味である。
 清地系図がどちらとも取れるような書き方をしているのが問題なのだが、ここで吉原瀧氏に残っている若干の資料によると、この伊賀は俗名を源太夫といい、伊賀を称する以前は紀伊という名だったとある。
 この記事は重要なことを物語っている。というのは、先ほど書いたように、「紀伊」は瀧氏の祖に与えられた名であった。そうだとすると、布沢瀧氏の祖といえる伊賀がある時期、紀伊を名乗ったということは伊賀が布沢瀧氏の祖だったことを示しているといえないだろうか。
 瀧氏の祖には紀伊の名を与えるという意識が働いた結果が、伊賀に紀伊の名を与えたのではなかろうか。
 この推定が成り立つなら、吉原瀧氏の資料は間接的に布沢瀧氏が吉原瀧氏の分家であることを証明しているともいえよう。
 以上のように、この問題についてはそれぞれの資料相互の問のみでなく、同じ資料でも矛盾する点が多く、一義的に決められそうにもない。疑問として残さざるを得ない。
 ついで布沢月望氏であるが、樽望月氏からの分家であることは間違いがなさそうである。
 ただ、清地系図が望月靱負からわかれたと書いていることが問題である。すでに述べたように望月靱負は実在の可能性が薄い人物だからである。
 萬記録は樽望月氏の数馬から分家となったと記している。この方が正しいといえるだろう。

吉原瀧氏の資料と清地系図、平山瀧氏の記録
 吉原瀧氏に伝わる若干の記録には、次のようにその家系が記されてい([ ]は吉原瀧氏の資料の間で異同のある人物)。

[内記(権左衛門)]
内記正貞
[正通]
紀伊正豊(左門か)
[正行]
紀伊正輔(源太夫。後に紀伊を伊賀と改める)
摂津正光
美濃正倶(掃部)
貞享
延宝
享保
延享
宝磨
寛政
文化
天保
この系譜について少し説明を加えておく。
@
吉原瀧氏はその先祖を、権兵衛とは別に、権左衛門(内記)と見なしているようである。
 これは、平山瀧氏が自らの祖を権兵衛の子である勘之丞としているのに似ている。
 ところが、奇妙なことに権左衛門夫妻と勘之丞夫妻の法名が、次のように一致しているのである。
権左衛門
勘之丞
権左衛門の妻
勘之丞の妻
常渓秀岩居士
常渓秀巌居士
雲林妙境大姉
雲林妙境大姉

ただ、残念ながら、これが何を意味するのかはわからない。

A
布沢瀧氏が吉原瀧氏の伊賀正輔のときに別家し、その伊賀が紀伊と名乗っていた理由はすでに記した。
 しかし、前にも記したように清地系図は吉原瀧氏が布沢瀧氏からわかれたとする系図を掲げる。
 もし、清地系図を信頼すると、吉原瀧氏の祖と目される権左衛門は実在しなかったか、あるいは布沢瀧氏の祖の権十郎と同1人物だったということになる。
 この部分は、吉原瀧氏の資料相互に異同が多く、疑問としておくしかない、

B
吉原瀧氏の資料と清地系図とはおおかたの部分は合致する。
 しかし、清地系図が瀧正行に紀伊の名を付するなど(吉原瀧氏の資料にはない)、異同も見られる。
 その上、正行が吉原瀧氏の資料によっては実在しなかった可能性もある。

C
吉原瀧氏には、ほかに摂津正光や美濃正倶など、後世になるほど萬記録やほかの資料と一致する名が多くなる。
 ところが、それ以前の人々の生存した年代が萬記録を初めとする資料とは差がある。また、古くなるほど一致しなぐなる。伝承の差異から生じたものであろうがその理由は不明である。

清地望月氏は疑問が多い
 疑問が残るのが清地望月氏である。
 私の作成した表(2)では、この氏に属する人物は享保から延享にかけての望月伊賀の名で現れるのが最初だが、何度もいうように、清地望月氏は四男の三四郎の系統ではないかとも考えられる。三四郎に始まる系図がはっきりしないことと、人物がすべて受領名でない俗名(五兵衛、重次郎、重吉など)の持ち主であることが問題の解決を妨げている。
 ことによると、この家系は伊賀、和泉、佐内と続く社人の系統と五兵衛、五郎左衛門、重次郎と続く俗人の系統の2つにわかれたのかも知れない。
なぜ慶長の権兵衛(樽の権兵衛)を創り出したのか
 最後の問題である。権兵衛が瀧紀伊であってかつ寛文年間の人としたとき、なぜ権兵衛の生存年代を50年ほど引き上げて慶長年間に生きていたようにし、架空の権兵衛すなわち樽の権兵衛を創り出したのだろう。
 答は簡単である。それは徳川家康の時代と慶長の権兵衛の生存の時代を合致させ、家康と樽の権兵衛との強固な関係を神話の上で作り上げ、寛文縁起や樽系図、清地系図にそれを書き込めるようにしたのである。竜爪権現の権威付けに徳川家康を利用しようとする意図があったからである。
 だから、寛文縁起で竜爪権現の白鹿を撃ち殺して神がかりになったのは、架空の権兵衛すなわち樽の権兵衛である。正保元年に死んだ権兵衛もまた樽の権兵衛である。
 もちろん、架空の権兵衛が神がかりになった話は、寛文縁起に署名した権兵衛の神がかりが材料として用いられたのだろう。
 系図もまたしかりである。樽系図と清地系図の両方の権兵衛はいずれも架空の権兵衛である。
 そして、瀧氏の現実の祖である寛文の権兵衛には、熊野修験系の山伏の発祥の地である熊野を含む紀伊の名を受領名として与えたのである。それは権兵衛を瀧氏の共通の祖として尊んだからである。
 ただ、この寛文の権兵衛が、生存中すでに瀧紀伊と呼ばれていたかどうかはわからない。
 神祇管領の吉田家が地方の神社に神位を、そして神職に位階斎服の免許を授けるのは、江戸幕府から公認される以前、天正年間にすでに見られる。
 そうだとすれば、寛文の権兵衛が吉田家から瀧紀伊の受領名を与えられても不思議はない。
 しかし、一方では権兵衛が感得した竜爪権現が、権兵衛一代のうちに、吉田家の承認を受けるに足るほど建物ばかりでなく祭祀や儀礼も含めて、神社としての体裁を整えることができたものか、また後に述べるように、神官として吉田家に支払うべき各種の高額な免許料を負担できるほどの収入が得られるようになったものかは疑問なのである。
 むしろ、竜爪山上に生活していた権兵衛は貧困に苦しんでいたのである。
 私には、権兵衛が瀧紀伊と官職名で呼ばれるようになったのは、後世になってからと思えるのである。