第2節 系図にブランクがある
 瀧氏の系図にブランクがある
 権兵衛の子供たちの問題はこれくらいにして、次に権兵衛以降の系図について見ることにしよう。
 まず、参考までに権兵衛を中心にした息子や孫たちの系図を見ていただきたい。これは私が萬記録と樽系図から作成したものであって、このような系図が文書として残されているわけではない。
 権兵衛が死去したのが正保元年(1644)である。そして息子の勘之丞は元禄11年(1698)に死んでいる。次の大和守正定は没年は享保18年(1733)とある。
 ところで、これまでに何度も引用した竜爪山御本社造営之覚帳によると、権兵衛は、正保元年に87歳で死んでいる。
望月・滝両氏関係系図(権兵衛の祖父以降)
      │       ?
      │       │          注:数字は死亡した年
   望月豊後義隆   滝重太夫
      │       │
   望月甚右衛門─┬───女
          │
正保元年死亡┌───┴─┐
   (1644)│望月権兵衛├──┬──滝氏の娘
      └─────┘  │
    ┌──────┬───┴───┬─────┐
 清地村│    樽村│    吉原村│  平山村│
  望月六之丞   望月権之丞  滝半之丞  滝勘之丞
    │      │       │     │元禄11年死亡
    │      │       │     │    (1698)
    │      │       │   (・正久?)
    │      │       │     │
         長左衛門         大和・正定
           │             │享保18年死亡
           │             │    (1733)
           │             │
         靱   負        伊勢・正好
           │              │
         安芸・正満        大和・正次

 当時としてはやや長寿とも思うが、権兵衛と同時代の徳川家康の政治顧問だった天海は百歳前後の長寿だったというから、そのようなこともあり得るとしておく。
 また、そのほかの記録などによると、勘之丞は寛文11年(1634)に生まれている。
 問題なのは権兵衛と息子勘之丞との年齢差である。数字の羅列でわかりにくいから、以上のことを表にする。

権兵衛・勘之丞・大和守正定の年令比較
人 名生 年年令差没 年
権兵衛1557
77
39
1644
勘之丞16341698
大和守正定16731733
注:大和守正定の生年は、当時の人々が平均
  60歳の寿命と仮定した場合の推定。
 勘之丞と彼の子の大和守正定の年齢差39歳はまず大目に見ることにするが、権兵衛と勘之丞の年齢差が77歳は大いに問題にすべきことであろう。権兵衛と勘之丞あるいはその子の大和守正定の間の年数が長すぎるのである。
 表の系図では、権兵衛と大和守正定の間には勘之丞1人がいるだけである。親子の間の年齢差を少し甘く見て35歳と見積もっても、親の権兵衛と息子の勘之丞の間が77歳の差ということは、人数の上では、さらにX、Yという二人の人物が入っていてもおかしくはないくらいである。

 要するに、
 権兵衛→X→Y→勘之丞→正定
 あるいは、
 権兵衛→勘之丞→X→Y→正定

 とあるべきではないかということを私はいいたいのだ。それが勘之丞一人だけが間に入っているために、年齢の面で間延びがして不自然なことになっている。
 どうも権兵衛、勘之丞、正定の三人の系譜の間に何かが隠されているようである。
 そればかりではない。萬記録は勘之丞の死を元禄11年(1698)とし、その次の大和守正定の死を享保18年(1733)としているのだが、正定とは別に「正久」という名が同じ萬記録には出てくるのだ。例の竜爪権現の祭日を定めた文書に署名を残している藤原正久である。そしてその正久は元禄3年(1690)に吉田家に赴くために上京している。
古今萬記録と龍爪山御本社造営之覚帳
古今萬記録と
龍爪山御本社造営之覚帳

 要するに勘之丞─正定の間に正久という人物がいたことが考えられる。右と同じようにして示すと次のようになる。
    権兵衛→勘之丞→正久→正定
 ところで、萬記録はまた別のところで勘之丞の死亡年をすでに記したように元禄11年とし、かつ法名の「浄渓秀巌上座」まで書き添えている。
 そして勘之丞の次は正久であるべきなのに、どういうわけか正久の名を飛ばして正定の名になってしまう。そして正定には勘之丞と同じように没年(享保18年)と法名「通岩光円居士」が書いてある。
 こちらでは正久の名が抜かされているのである。
 これだけなら萬記録の書き誤りということになるのだが、同じ萬記録が別のところで先祖の茶湯料(供養料のようなものだろう)として、なにがしかの金子を三枝庵(平山瀧氏の菩提寺である)に納めたことを記録している。
 ここにも勘之丞と正定の法名はあっても、正久のものは記されていないのである。私の推測だが、萬記録を書いた瀧長門正はこの勘之丞と正定の二人は実在したと考えていたが、正久は実在しなかったと思っていたらしい。
 なお長門正は自分の先祖を勘之丞と考えているふしがあって、「竜爪山御本社造営之覚帳」の表紙にも、彼は「瀧勘之丞家 正秀(正秀は長門正の本名)」と署名している。
 右でいったことを並べてみよう。
          ┌──────┐
 私の考え@:権兵衛→X→Y→勘之丞→正定
 私の考えA:権兵衛→勘之丞→X→Y→正定
 萬記録@ :権兵衛→勘之丞→正 久→正定
          └──────┘
 萬記録A :権兵衛→勘之丞→   →正定
 これで理解できるように、権兵衛と正定の間(すなわち、カッコの部分)で平山瀧氏の系図は乱れているとしかいいようがない。
 樽系図にもやはりブランクがある
 同じことは望月氏の系図である樽系図にもいえる。もう一度42ページの樽系図(s)を見ていただきたい。
 実は樽系図にはもっと不思議なところがある。
 樽系図はそれぞれの人名について注書きを施し、さらに死亡年月日と法名を丹念に記している。このあたりは上に述べた萬記録に似ている書き方である。また、人によっては妻が誰であったかも書かれている。権兵衛の父である甚右衛門の妻が瀧重太夫の娘というのがその例である。
 また、妻の法名も書かれていることも多い。たとえば、次のとおりである。
権 兵 衛・・雪岩宗好禅定門
権兵衛の妻・・真照貞鑑禅定尼

 ところが、樽系図の権兵衛の子の権之丞の次の二代、すなわち長左衛門と靱負(権之丞には孫と曾孫にあたる)には、法名もなければ妻の名もなくてまったくのブランクなのだ。ただ「神官職」あるいは「神職」とあるのみである。そして、靱負の後の望月安芸守正満に至って再び注書きも加わり、法名も本人のみでなく妻のものまできちんと記されるようになる。系図がもとの形式に回復するのである。
 ここの部分を表にすると次のようになる。長左衛門と靱負のところがブランクなのである。
 これはこまめに注書きや法名、没年を書き込んでいる樽系図の作者が記入するのを忘れたのではないと思う。ほかの人物には法名や没年が書かれているのだから、この二人だけに書くのを忘れたなどということはありえない。
権之丞・長左街門・靱負・安芸守正満の注言き
氏  名望月権之丞望月長左衛門望月靱負望月安芸守 正満
法  名雲上大心同士見外是性上座
没  年寛文6年享保5年
妻の法名明寛大心大姉音如貞観大姉
注書き 是迄二代竜爪山に居住(以下省略) 神官職とす 神 職 京都吉田殿より神官免状賜う(以下省略)

 まして書くべき没年や法名がないわけはない。人間は必ず死ぬのだから、法名はともかく、没年は誰にでもあるはずだ(なお、樽系図の中で権兵衛の祖先たちにも、同じように名が記されているだけで、注書きがいっさいない人物が何人かいる。かっこ書きで中略と書かれているのがその部分である)。
樽望月氏に残る吉田家からの神道裁許状
樽望月氏に残る吉田家からの
神道裁許状

 長左衛門と靱負の二人の次に来る望月安芸守正満は、注書きが述べているように、吉田家から藤原正満の神官名を授与されている。清水市の望月さんのお宅にはこの正満の裁許状が残されている。だから安芸守正満は実在の人物であると考えてよい。
 樽系図の作者が作為的に長左衛門と靱負を系図の中に、ということは正満の前に挿入したとしか思えないのである。だから記入すべき事項がないので、苦肉の策として「神官職とす」「神職」と、書く必要もないことを付け加えたのだろう。
 だからこの二人は、架空の人物と考えた方がよさそうである。
 そして、ここで注目しなければならないのは、私が問題にしている期間の平山瀧家の権兵衛から大和守正定の間と、樽系図の権兵衛から正満の間とがほぼ一致することだ。
 また並べてみよう。
           ┌──────┐
  私の考え@:権兵衛→X→Y→勘之丞→正定
  私の考えA:権兵衛→勘之丞→X→Y→正定
  萬記録@ :権兵衛→勘之丞→正 久→正定
  萬記録A :権兵衛→勘之丞→   →正定
  樽望月氏 :権兵衛→権之丞→長→靱→正満
           └──────┘
    (「長」は長左衛門、「靱」は靱負の略)
 このように平山瀧氏と樽望月氏に共通して権兵衛の息子か孫のあたりで欠史があるとすれば、他の吉原瀧氏や清地望月氏などにも同じ時期にブランクがあることが予想される。