延享縁起に入る前に処理しておかなければならないことがある。それは権兵衛の子供たちの名前のことである。
前にも書いたように、古今萬記録によると権兵衛には6人の子供がいた。4人の息子と2人の娘である。娘の1人は平山村五郎兵衛の妻となり、他の1人は布沢村名主の妻となった。彼女らの名は知られていないし、その後の動静もいっさい記録されていない(ただし、平山には五郎兵衛の子孫と伝えられている方のお宅がある)。
4人の息子は次のように各地に散り、それぞれの家の祖となった。
半之丞(吉原・瀧氏)
勘之丞(平山・瀧氏)
半兵衛(樽・望月氏)
権平(清地・望月氏)
→布沢・瀧氏が別家
→布沢・望月氏が別家
(かっこ内はそれぞれが住んだ土地の名と名乗った姓である)。
そしてのちに吉原瀧氏から布沢瀧氏が、樽望月氏から布沢望月氏がわかれて、つごう六氏となる。
ところが、上の清地系図によると同じ四氏でも、樽をはじめとし布沢、平山、清地(清地望月氏の祖が三四郎とははっきりと書かれてないが、そのように理解しておく)にわかれたというのだ。樽系図と清地系図では吉原と布沢が入れ替わっでいる。
そればかりか、清地系図で清地望月氏の祖となった望月六之丞は、死亡年月日と死亡場所(竜爪山)が樽望月家の祖となった権之丞と同じなのである。2人は同じ人物の可能性がある。しかし、望月六之丞は長男、望月権之丞は次男とあるから、これは別人とも考えられる。
このようにどちらともとれる人名のあることや、内容に矛盾することが多いのが、清地系図をわかりにくくしている理由である。
権兵衛の息子には異名同人が多い
次の問題は権兵衛の息子たちには異名が多いことだ。平山へ下った勘之丞が、別に権太夫という名を持っている。樽へ下った半兵衛は権之丞とも呼ばれている。権之丞は右に述べたように清地系図の六之丞かも知れない。
この辺のところは、文章では理解することはむずかしいので、萬記録や清地系図、寛文縁起をはじめ、竜爪権現に係わる論文などからその名を拾い出して表にしてみよう。
吉原瀧氏
平山瀧氏
布沢瀧氏
樽望月氏
布沢望月氏
清地望月氏
・・
・・
・・
・・
・・
・・
内 記 半之丞 権左衛門
勘之丞 権太夫
権十郎 内 記
半兵衛 権左衛門 権之丞 六之丞
権十郎 三次郎 三四郎
六之丞 六 平 権之丞 三四郎 権 平
清地望月氏の六之丞の別名が六平だから、似ているといえば似ている(ただし、権之丞と三四郎とは似ていない)。その上、六氏の間に三四郎や権十郎、六之丞のように重複して出てくる人名もある。これも似ているグループに入るといえば入る。
しかし、他はどれも似ていない。似ていないどころかあまりにも違いすぎる。これが同一人物かと首をかしげざるを得ないような名である。それが半兵衛と権左衛門、勘之丞と権太夫などである。
昔のことだから、現在よりは名を変える機会は多かっただろう。元服によって幼名から大人の名に変わることはその一例だ。だが、勘之丞や半兵衛は幼名だろうか。どう見ても成人した男の名前ではないか。子供の名だったら、このような鹿爪らしい名ではなく、吉丸とか三太、千代吉とかもっと可愛げのある名を付けそうなものである。
私がこのことを何人かの方に尋ねたら、ある方の返事の中に出世魚ではないかというのがあった。要するに成長するにつれて名が変わるというのだ。しかし、人間は魚ではないのだ。イナダやブリとは違うのである。屋号やあだ名ならともかく、人別帳や五人組帳にも記載しなければならない名が、年を取ったからというだけの理由で、そんなにたやすく変えられるとは思えない。だから、勘之丞−権太夫、半兵衛−権左衛門などというのは元服によって改名したのではないといわなければならない。
もっと腑に落ちないのは、たとえば半之丞と内記が同じ人間だということである。しかし、半之丞と内記では名前の持つ雰囲気がまったく違う。半之丞が町人や農民の名とすれば、内記は武士か公家の家に生まれた者の名のようだ。また、内記は半之丞ばかりか三次郎や権左衛門ともまったく異質の名である。
平山瀧氏に残されている元禄2年の秣場論争のさいに提出されたという書類の控には、内記、六之丞、勘之丞、権之丞と4人の名が記されている。内記を除いてはみな「何之丞」となっている。私には親が自分の息子たちのうちの一人だけに、内記というようなまったく別の名を与えるということが理解できない。
昔は太助、次郎吉、三郎兵衛など兄弟に順番に名をつけることが多かった。あるいは、右に書いた書類のように六之丞とか勘之丞のように「何之丞」と一字だけ異なる字を名に用いたものである。
だから、右の書類にある内記という名前も、なんらかの混同によってここに記されたとしか思えないのである。
名の違う者はすべて別人
私は別の名を持った人間は、原則としてすべて別の人間だと考える。要するに単純なことだが、名が違えば例外はあるにしても別人なのである。
それではなぜ権兵衛の息子4人としてこのような系図を作ったのだろう。そして、なぜ息子の名に混乱が起きたのだろう。
これには2つの理由が考えられる。
私は権兵衛一族が竜爪山上に集団で暮らしていて、権兵衛が生きている間も、あるいは死んだ後も、しばらくの間は権兵衛のあと誰が竜爪権現の社人となるかが決まらず(または決めずに)、権兵衛の息子たちとか、あるいは息子の息子たち(すなわち権兵衛の孫たち)などが、適宜に社人として、竜爪権現の守り役を勤めていたのではないかと思う。あるいは、権兵衛の兄弟やその子供たちも含めてもよいのかも知れない。
前に述べたように、権兵衛と藤兵衛のあいだには、権兵衛が神がかりして招いた竜爪権現を、熊野権現に連なる正統の神として認知するかしないかについて争いがあった。このことは、望月、瀧両氏の間や、同じ望月氏や瀧氏の内部でも一族の構成員が多くなるにつれ、必ずしもしっくり行かない面が生じてきたことを推察させてくれる。
そしてある時期に至り、ようやく社人として竜爪権現のお守り役を勤める家が望月二氏と瀧二氏と定まり、それにともなって権兵衛の息子が4人いることにして、望月二氏と瀧二氏とわかれたような系図が作成されたのだろうと考える。あるいは社人になることができた四氏が、逆に権兵衛を祖とすることにして、自分の家系に権威を持たせたのかも知れない。
清地系図で同一と思われる人物が異なった名前で登場するのも、このような権兵衛一族の構成によって、後代へ口伝などで伝えられた内容に混乱があったためではないだろうか。単なる筆写の過程での誤りだけではあるまいと思う。
だから兄弟として挙げられている4人が本当に兄弟であったかどうかはわからない。権兵衛とは血がつながっているから、まったくの他人ではないが、権兵衛から見れば孫もいただろうし、ことによると兄弟の子すなわち甥がいたことも考えられる。
次の理由を述べる。
かつてはいとこ同志が結婚したり、兄夫婦があって兄が若くして死んだとき、弟が兄嫁と夫婦になる例は珍しくなかった。このようなことが行われれば、現在と違って、はっきりと祖父−父−子−孫という単純な直系家族にはならないだろう。四氏といい六氏といっても、明瞭に区別がつかなくなる。
権兵衛一族が集団で竜爪山上に暮らしていたことは、樽系図にも権兵衛の子の権之丞のところに「これまで二代が竜爪山に住んだ。寛文年間に樽村へ移る」という注書きでもわかる。
私が述べたことを裏付けるような言い伝えが、私がお話を伺った清水市の望月さんや瀧さんのお宅にも残っている。
その伝承とは、望月氏と瀧氏は穂積神社の現在の境内となっている土地の一部で、かなりの年月を大家族で過ごし、竜爪権現に仕えていたというのである。ある方はその期間を50年とも60年ともいわれた。
私は望月さんや瀧さん、あるいは古本さんに案内していただいて、これまでに十度ほど穂積神社を訪れたことがある。
静岡市平山から清水市黒川に向かう道を左に少し下がったところに穂積神社の鳥居があるが、その下り道のすぐ左端、杉の巨木の根元に小さな墓地がある。小ぶりの墓石が十基ほど立ち並び、なかには笏を構えた神像もある。子孫の方々は、ここが望月、瀧両氏の共同の墓地と認識している。
望月、瀧両氏の墓地(穂積神社参道入口ある)
「藤原」の銘のある墓石
望月さんのお宅の裏には、高さが1メートル半ほどの自然石の大きな墓石がある。望月さんは、この墓石は右の墓地から移されたものだと信じている。
たしかにその墓石には写真でははっきりしないが、後述するように社人の称号である「藤原」の文字が刻まれている。
ところで、望月さんや瀧さんは今でもときどき穂積神社に参拝すると、この墓地へお参りをする。また、本社はもちろん奥の院にも拍手をうつ。
清水の瀧さんもその一人だが(ちなみに年齢は70才を越えている)、私にこうおっしゃる。
「わしゃあ、自分が酒が好きだから、先祖も酒が飲みたいと思ってね、おまいりのついでに酒を撒いてくるさ」。権兵衛はよい子孫を持ったものである。
また、望月さんの話はこうである。
この穂積神社の近くに大根地とか菜畑と呼ばれるところがある。現在は一面にすす竹が密生しているが、ここは両家の祖先たちが共同で生活していたとき、野菜を作っていた土地だと望月さんは聞かされている。しかも、その肥料の下肥を運ぶのは女たちの仕事だったというのである。男たちは神に仕えるので不浄の物を扱えなかったそうだ。
それにしても、重い下肥を運ぶのは重労働であったに違いない。口数の少ない望月さんもやはりそのことをを思いやってか、「昔は男尊女卑だから仕方がなかったのかなあ」と呟いていた。
もう一つ、こんな話もしてくれた。
瀧氏の家に男の子がいなかったとき、望月さんの祖先の家から瀧氏に養子に入ったという話が残っているのだ。それも竜爪山で両氏がともに生活をしているときのことだという。竜爪山上で、両氏が婚姻を通じて複雑な家系を形成していたことを裏書きする話である。
これに類する話が平山にも残っている。
穂積神社の南側に数町歩の広さの「茶の木段」と呼ばれる比較的、平坦な土地がある。東向きで日照時間も長く、沢もあって水にも不自由はしない。平山の伝承ではここが両氏の共同生活の場だったという。
なお、このような場所はほかにも清水市黒川など何カ所かがあったともいわれている。
先ほどの瀧さんの話に戻る。瀧さんは竜爪山に入ると、次のような祈祷の文句を声高らかに唱えながら山中を巡る。
「竜爪山穂積神社の地主
大神
山神宮高神さん
稲荷大明神さん 八大竜王大明神さん
大天狗さん小天狗さん
大己貴の大神 少彦名の大神の御尊霊に
つらなるところの有録無録の一切諸霊……」。
この祈祷の文言に登場する神々のほとんどは、萬記録に長門正が記す神々と重なる。
瀧さんはこれを以前から唱えているらしい。きっと江戸時代の人々も瀧さんと同じように、山へ入るときには大己貴命や少彦名命をはじめとする山の神の了解を得るため、あわせて山の幸の豊かなることを願って、このようなお祈りの言葉を唱えながら山中を歩いていたに違いない。