第一章 権兵衛の子孫たちと系図
清地望月氏の系図
 寛文縁起の説明が終わったから、次に延享縁起に移ろう。
 その前にまず清地望月氏に伝わっていた系図を紹介しておく(以下、清地系図と呼ぶ)。初めに述べたように、錯簡や遺漏が多く、意味がよく取れない部分もある。
 権兵衛の父である甚右衛門より前は樽系図とほぼ同じなので省略し、甚右衛門以降について主なところだけを紹介する。
 特徴的な事項を箇条書きすると次のようになる。
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清地系図は雑然としている。権兵衛の息子たちの系図も複雑で理解できないことが多い。樽系図の整然とした書き方に比べると対照的である。

清地系図の主な内容
30代 武田甚右衛門 源義豊
妻は瀧十太夫正吉の娘。法名や命日は紙が虫に喰われ破損してわからない。
長男:武田佐次右衛門 源豊光
 (中略)武田信玄公が樽峠をご通行の時、投筆で道端の岩に一句を書き記した。
松たへて武田色ます明日か事
天正10年に武田勝頼が天目山において自害され、甲州が亡びて後、徳川三河守蔵人頭元康(注:家康の若いときの名である)が、甲州へいらっしゃるさい、ここをお通りになった。この時、家の前に立ち寄られ、ご休息になられた。そこで武田佐次衛門は姓を改め、望月次右衛門と名乗り、家来となりお御茶を差し上げた。
 それより甲州へご出発になった。信玄公が投筆にてお書きになった歌をご覧になり、同じように投げ書きで、
 松たへて多気田色なき明日哉 と、その歌を直された。
武田権兵衛四男三四郎の(注:以下は意味不明。清地望月氏か?)
望月五兵衛 (寛文4辰4月13日)
同五郎左衛門(正徳4午年)
同重次郎  (明和9辰年)
重 吉   (天明7未)
五郎左衛門 (文化3丙寅年)
半 蔵   (天保15辰年)
弥平治   (天保4癸巳)  同所大家瀧五平二男
五郎左衛門
31代 二男 武田権兵衛 源豊正
中河内村板井平樽上に住む。望月五郎佐右衛門の世話で同所大屋瀧氏の娘を妻とし、家を別にした。子4人あり。(注:ここに寛文縁起の前半部とほぼ同じ文があるが省略する)
 この山へ竜爪権現が飛び移って来てから山気が鎮まり、人々が安穏に住むことができるようになった。近村の人々はたいへん喜び、竜爪権現の森として境界を定め、奥行き十二丁、黒川村方へ五丁、平山村方へ三丁と決めた。これについての権兵衛自筆の覚書は吉原村の瀧内記方にある。
 正保元年9月16日、権兵衛が行年87才で死去した。地主神として祭る。伝にいうのには、虚空へ躰を投げてその行方がわからなくなった。そこで地主神として権兵衛を祭ることにした。
32代 長男 望月六之丞 源豊広  寛文6年午年4月20日竜爪山で死去。
二男
中河内村上樽古屋敷に住居(注:樽望月氏)
望月権之丞―長左衛門―靫負―安芸正満(以下略)
・布沢望月氏
(靫負から)―出雲正好―大隅正則―日向正幸―大隅宗高(以下略)
三男
布沢村住居(注:布沢瀧氏)
瀧権十郎―内記正貞―紀伊正通―摂津正豊―周防正次―出羽正久(以下略)
・わかれ 吉原村住居
(紀伊正通から)―摂津正豊―紀伊正行―紀伊正輔―摂津正光―美濃正倶(以下略)
・平山村住居  (注:平山瀧氏)
紀伊正通―大和正則(以下略)
一方の樽系図はいかにも作られた年代記という印象を与える。家系もあまりに単純化されている。
 これに対し、乱れの多い清地系図には、樽系図で捨て去られた事実が、そのまま事実として記されているのではないかと推測される部分がある。
A
前に関連することだが、樽系図は単純化され過ぎて、権兵衛の兄弟のことはまったく記載していない。また、権兵衛の息子のことも望月権之丞を除いては省略されている。
 一方の清地系図は乱れてはいるものの権兵衛の兄弟や息子たちをひとりひとり扱っている。
 そればかりか、望月氏、瀧氏の6氏のすべてについて精粗はあるが記されており、6氏の関係を見るには欠かせない資料である。
B
権兵衛の兄、佐次右衛門の挿話には樽系図にない興味のあるものが多い。
 たとえば武田信玄や徳川家康と佐次右衛門との出会いの話である。また、樽系図には歌はなかったが、清地系図には信玄と家康の歌を記している。
C
樽系図にはまったく出てこなかった「瀧紀伊」の名が清地系図には現れでいる。
D
権兵衛四男の三四郎(寛文縁起の三次郎と思われる)の系図が書かれている。
 何か曰くありげだが、意味するところがよくわからない(これについては後に触れる)。