30代 武田甚右衛門 源義豊
妻は瀧十太夫正吉の娘。法名や命日は紙が虫に喰われ破損してわからない。
長男:武田佐次右衛門 源豊光
(中略)武田信玄公が樽峠をご通行の時、投筆で道端の岩に一句を書き記した。
松たへて武田色ます明日か事
天正10年に武田勝頼が天目山において自害され、甲州が亡びて後、徳川三河守蔵人頭元康(注:家康の若いときの名である)が、甲州へいらっしゃるさい、ここをお通りになった。この時、家の前に立ち寄られ、ご休息になられた。そこで武田佐次衛門は姓を改め、望月次右衛門と名乗り、家来となりお御茶を差し上げた。
それより甲州へご出発になった。信玄公が投筆にてお書きになった歌をご覧になり、同じように投げ書きで、
松たへて多気田色なき明日哉 と、その歌を直された。
武田権兵衛四男三四郎の(注:以下は意味不明。清地望月氏か?)
望月五兵衛 (寛文4辰4月13日)
同五郎左衛門(正徳4午年)
同重次郎 (明和9辰年)
重 吉 (天明7未)
五郎左衛門 (文化3丙寅年)
半 蔵 (天保15辰年)
弥平治 (天保4癸巳) 同所大家瀧五平二男
五郎左衛門
31代 二男 武田権兵衛 源豊正
中河内村板井平樽上に住む。望月五郎佐右衛門の世話で同所大屋瀧氏の娘を妻とし、家を別にした。子4人あり。(注:ここに寛文縁起の前半部とほぼ同じ文があるが省略する)
この山へ竜爪権現が飛び移って来てから山気が鎮まり、人々が安穏に住むことができるようになった。近村の人々はたいへん喜び、竜爪権現の森として境界を定め、奥行き十二丁、黒川村方へ五丁、平山村方へ三丁と決めた。これについての権兵衛自筆の覚書は吉原村の瀧内記方にある。
正保元年9月16日、権兵衛が行年87才で死去した。地主神として祭る。伝にいうのには、虚空へ躰を投げてその行方がわからなくなった。そこで地主神として権兵衛を祭ることにした。
32代 長男 望月六之丞 源豊広 寛文6年午年4月20日竜爪山で死去。
二男
中河内村上樽古屋敷に住居(注:樽望月氏)
望月権之丞―長左衛門―靫負―安芸正満(以下略)
・布沢望月氏
(靫負から)―出雲正好―大隅正則―日向正幸―大隅宗高(以下略)
三男
布沢村住居(注:布沢瀧氏)
瀧権十郎―内記正貞―紀伊正通―摂津正豊―周防正次―出羽正久(以下略)
・わかれ 吉原村住居
(紀伊正通から)―摂津正豊―紀伊正行―紀伊正輔―摂津正光―美濃正倶(以下略)
・平山村住居 (注:平山瀧氏)
紀伊正通―大和正則(以下略)