第2節 寛文縁起はどのようにしてできたか
 次に寛文縁起をくわしく見ることにしよう。
 はじめに寛文緑起の内容である。まず前半の、権兵衛が鉄砲で白鹿を撃ち、神がかり状態になったという物話の筋書は、縁起の作者がみずから考案したものなのか、それともどこかに類似の話があり、それに手を加えて寛文縁起として組み立てたものであろうかという問題である。
 また、後半の部分の、竜爪権現が徳川家康のためにめざましい活躍をし、家康と竜爪権現がいかに密接な関係にあるかを説明する部分は、これも何か手本のようなものがあったのだろうか。以下これらについて考えてみたい。
縁起の前半は三重県海山町にかかわりがある
 三重県北牟婁郡に海山町という町がある。紀伊半島の潮岬と志摩半島の中間にあって、リアス式海岸が美しく、前面には紺色の熊野灘が広がる。町の背後には紀伊山脈が青い山並みを重ねている。ここは大台ヶ原の登山口にあたり、熊野の山々を経て大峰山脈に連なる。古くから修験道の中心をなす山々である。
 この海山町と尾鷲市の間を、大台ヶ原から伸びてきた山系がいくつかの筋をなして熊野灘に落ちている。
 その海山町をかつて尾鷲市、新宮市と通じる東熊野街道が通っていた(123ページの地図を参照(s)。東は伊勢を経て四日市、名古屋に至り、さらに東海道や中山道に通じている。関東や東海からの熊野参詣の人々の通った道であったことは前に述べた。ほぼ現在のJR紀勢本線に重なっている。そして海山町から熊野三山の一つである熊野速玉神社のある新宮市までは、西にわずかに40`bに過ぎない。
 古来、熊野地方はまことに不便な地であった。昭和の初めでも、大阪からも名古屋からも鉄道は通じていなかった。この2つの都市に出るには那智勝浦からの船のみが頼りだった。紀勢本線が名古屋―新宮―大阪を結んだのは、そんな古いことではなく昭和34年である。
クムノ
 熊野三千六百峰が人の近づくことを阻んでいたのである。だから、熊野の語源が「隠野」ともいわれているように、罪を犯し、あるいは戦いに敗れた人々が隠れ住むのに格好の場所であった。
 そればかりではない。「隠野」はまた、死者の霊の籠もり隠れる場所でもあった。イザナミ命が熊野でみまかったという神話があるように、熊野は死者の魂がとどまる国でもあった。熊野の山中で、人は死んだ親兄弟や知人に会えるという。それが本当のこととして熊野では信じられている。
 海山町は現在は三重県に属しているが、古代から中世にかけては熊野であった。それが明治時代に4つの郡に分かれ、現在の東牟婁郡と西牟婁郡は和歌山県に、南北両牟婁郡は三重県に所属することになった。
 そして熊野の名が示すとおり、海山町は熊野修験、とくにその地理的位置から新宮市の速玉大社の神倉修験と東熊野街道によって結びつけられていた地域であった。
種蒔き権兵衛の歌
 その海山町に種蒔き権兵衛の俚謡が残っている。「権兵衛が種蒔きゃ烏がほじくる」というあの歌である。
 歌の主人公の権兵衛は実在の人物だという。子孫と伝えられる方々もいらっしゃる。ただし、彼に関する資料はいっさいないという。彼の屋敷跡が海山町の便ノ山にあり、その墓も近くの寺にある。
 歌詞は次のようなものである。
「権兵衛が種蒔きゃ 烏がほじくる
   三度に一度 は追わずばなるまい  ズンベラ  ズンベラ」

 この地に残る伝説は、種蒔き権兵衛の一生を次のように語っている。
 「彼は紀州藩士上村兵部の子だった。彼には誰にも負けない特技があった。彼は百姓だったにもかかわらず鉄砲の名手だった。そしてある日、紀州の殿様の御前で他の鉄砲自慢たちとその技を競うことになった。
 そのさい、鉄砲の的になったのは樽だった。
 多くの競争相手が樽の的を外すなかで、彼は見事にこの樽を打ち抜いた。しかも二度までも。ところが、樽の底には穴が一つしか明いていない。競争相手は権兵衛が二発目の弾を外したと主張した。しかし、よくよく調べてみると、彼は一発目の弾が貫通した穴に二発目を撃ち通したのだった。
 殿様は彼の並はずれた鉄砲の腕前に惚れ込み、召し抱えようとした。だが彼は武士を嫌い、せっかくの殿様の好意ある申し出を受けず、気楽な百姓を続けることにした。
 百姓でなかった権兵衛は、慣れぬ腰つきで田畑を耕し種を蒔いた。手入れも満足にせず、収穫もままならず、田畑は荒れた。それを見た村人が彼を笑い、そしてできたのが『権兵衛が種蒔きゃ……』の歌だという。
 ところで、そのころ村人は夜な夜な村を襲う大蛇に悩まされていた。この大蛇は馬越峠に住み、数百年の劫を経ていて、人を呑み込み家畜に危害を加えていた。
 村人たちは権兵衛に彼の鉄砲の腕を見込んで、大蛇退治を依頼した。他の鉄砲自慢の猟師の弾では、蛇の体が鉄板のように堅いので、ことごとくはね返してしまうのだという。
 彼は承諾した。彼は鹿笛を作る。木製の手の平くらいの大きさの笛だった。これにヒキガエルの皮を張る。吹くと牝鹿の鳴き声がするという。猟師が鹿狩のさい鹿をおびき寄せるのに使う道具だった。
 彼は笛を吹いた。大蛇を自分の近くに充分引き寄せた。銃口が火を噴いた。そして大蛇は死んだ。
 しかし、気の毒にも彼は大蛇の毒気に触れて落命するのである」。
樽の権兵衛と種蒔き権兵衛はよく似ている
 以上が種蒔き権兵衛の物語である。寛文縁起の前半部に現れた樽の権兵衛の物語とその構成要素が共通しているものが多い。いや、多過ぎるのである。
 わかりやすく表にしてみよう。十項目にも及ぶ共通点が並んでいる。これはただの偶然であろうか。
 権兵衛という名前、生きていたとされる時代、身分、鉄砲、鹿、樽など、似すぎるように似ている。
 二つのものを比較した場合、一つや二つの事柄が似通っているならば、偶然とも考えられよう。しかし、この表のように十項目にも及んで類似しているとなると、そこに作為を感じざるを得ない。
樽の権兵衛と種蒔き権兵衛
―物語の要素の比較―
項 目
樽の権兵衛
種蒔き権兵衛


上村
名前
身分
鉄砲
獲物
生存
災難

ヒキガエル
居住地の名
樽峠(馬の乗換)
居住地の名
権兵衛
武士の子
かなり使える
鹿
江戸時代
鹿を撃ち神がかり
ゴトビキ岩(奥の院の亀石)
鉄砲の的
馬越峠

権兵衛
紀州藩士の子
名人
大蛇。ただしおびき寄せるために鹿笛を使う。
江戸時代
大蛇を撃ち落命
笛に張る皮

 落語に三題噺というものがある。高座の落語家が客席の3人の聴衆から、何の脈絡もない一つずつの話題―たとえば野茂投手、ペイオフ、介護保険というような―をもらい、即席で短いまとまった噺に仕立てる。同じ話題でも客に喜ばれる面白いものになるかどうかはその落語家の芸である。
 寛文縁起の作者も、種蒔き権兵衛の物語の中から表のような要素を選び出し、これを材料に種蒔き権兵衛とは似ても似つかぬ寛文縁起の前半部に仕立て上げたのだった。
 作者はこの俚謡の主人公の種蒔き権兵衛が熊野に住む山伏であることを知っていたから、同じ熊野系の山伏である樽の権兵衛が竜爪権現の社人となる緑起に利用したのである。
 だから、藤兵衛と争って勝利し、寛文録起に署名している権兵衛は初めから権兵衛という名だったのではなく、当初は別の名であったものが、この縁起が作成された後に権兵衛を名乗るようになったと考えるべきなのかも知れない。
 種蒔き権兵衛がどうして山伏なのか。それには根拠が三つある。
 一つめである。種蒔き権兵衛の生れた海山町には、町おこしの一環として権兵衛屋敷という施設が設けられていて、そこに「ズンベラ石」という奇妙な石が座布団の上に展示されている。
ズンベラ石
ズンベラ石
種蒔き権兵衛が所持していた(海山町提供)
 これは種蒔き権兵衛が狩の途中に拾った石で(一説によると、父の上村兵部からもらった石だという)、ズングリして黒光りし、鉄のように重く、なめらかで艶がある。この石には鎮痛作用があり、歯痛などはこの石を十分間ほど痛む歯に当てておけば治るという。また、喉に魚の骨などが刺さったときには、これを喉に押し当てておくだけで不思議に骨が取れる効能もある。
 そればかりではない。種蒔き権兵衛はこの小さい石に自分の体を隠し、敵の目を欺くことができたのだ。まるで忍者である。
 いったいこれらは何を意味するのだろう。忍者まがいに不思議な効能のある石を所持している権兵衛。思わず微笑を誘うような俚謡の種蒔き権兵衛ではない、異なる面を持った権兵衛の姿がそこにはある。
 私はこうした道具を持った人物といえば、やはり山伏としか考えられないと思う。「ズンベラ石」は山伏の呪術の道具だったのだろう。この石で歯痛など痛みのある個所を撫でて症状を和らげたり、毒消しのまじないなどに使ったに違いない。
 このような効能を持った石を、ふつうの里人が持つことはまずありえまい。
 種蒔き権兵衛は熊野の山々で修行を続ける山伏だったのだ。ことによると、「ズンベラ石」は、父からもらったというから、父もまた山伏だったのかも知れない。だからこそ、里に下りて農業をしてもうまくはゆくはずはない。
 山から里に下った山伏を「里山伏」という。山伏が山からまったく環境の異なる平地の里に下りて住むようになったときの悲喜劇は、古くから狂言や滑稽本の格好の材料として多く取り上げられている。種蒔き権兵衛はそんな里山伏だったのだろうか。彼も人々の笑いの対象にされていたのかも知れない。
「ズンベラ」とは光明真言の中の「ジンバラ」
ハヤシ
 二つ目は「ズンベラ」というお囃子のような言葉の意味である。どんな意味があるのだろう。
 真言宗で現在でも法事などで唱える「光明真言」というものがある。梵語だが音だけで示すと次のようになる。
「オン アボキャー べイロシャノウ マカボダラ マニハンドバ ジンバラ ハラバリタヤ ウーン」。

 次のような意味といわれる。「オーム、不空なる者よ。ヴァイロチャーナよ。大印を擁する者よ。摩尼と蓮華が結合した姿にある者よ。光明を放て、フーム」
 この真言のうち、「ジンバラ」に注目していただきたい。これは梵語で「光明」を意味する語なのである。なお、文中の「ベイロシャノウ(ヴァイロチャーナ)」とは大日如来をいう。
 種蒔き権兵衛の歌の囃子の「ズンベラ」はこの「ジンバラ」が転訛したものだと思う。というのも、この真言は先ほども述べたように光明真言と呼ばれ、修験道では重要な真言として扱われているからだ。
 これを唱えると罪障消滅し福楽長寿を得、浄土往生ができるとされている。山伏は事あるごとにこれを声高らかに唱えながら、大日如来の結んでいる智拳印や不動明王の外縛印を両手に結ぶ。
 そればかりではない。この真言は古くは密教による葬儀のときに唱えられていたものなのである。
 埋葬のさい、死者を墓穴に入れて土で覆う。そのとき土砂加持といって、この真言を念じながら少しずつ土を穴に入れてゆく。光明真言により死者を覆う土砂を清浄にし、死者の罪障を除くのである。葬儀で繰り返し唱えられていた真言だから、昔の人々がこれを聞く機会は多かったはずだ。
 密教と修験道との結びつきは強い。山岳宗教としての修験道は、真言宗が弘法大師によって中国から持ち帰られると、すぐさまこれを行法に取り入れた。数々の真言や護摩の作法、不動明王などの怒りの尊像への帰依。不動明王は山伏の本尊である金剛蔵王権現に変成した。その不動明王は真言宗の本尊大日如来の忿怒形である。
 弘法大師も若いときは山林を抜渉して修行に打ち込んだ。最澄の開いた天台宗はその後急速に密教化し、修業方法の一つとして厳しい千日回峰行を規定した。
 この光明真言を聞いた人々が、意味のない音の羅列(梵語など知らなくて当然である)の中から、比較的耳に残りやすい「光明」を意味する「ジンバラ」だけを記憶し、それが囃子言葉に転用されたのだろうと私は考えるのである(実際に法要などで僧侶の唱えるこの光明真言を聞くと、たしかに「ジンバラ」だけがひときわ耳に響くものだ)。
烏の意味するもの
 三番目は烏である。「種蒔き権兵衛」の歌詞は、どことなく奇妙なおかしみをもって受けとめられている。人間と烏のそこはかとなくのんびりした関係、それに囃子言葉の「ズンベラ、ズンベラ」の語感のなせるものであろう。
 しかし、本当にそのようなユーモラスな歌の意味なのだろうか。
 せっかく蒔いた種を烏にほじくられて、ついばまれてしまう。それならば、なぜ三度に一度といわず、三度に三度、烏が飛んでくるたびに追い払おうとしないのだろう。いかにも呑気でおどかな権兵衛のことだから、種をついばむ烏を見てもそんな薄情なことはせず、三度に二度は見逃してやり、仏の顔も三度、やむにやまれず一度だけは追い払うことにしているのだ、といいたいのだろう。
 だが、烏はそんなに人間と甘い関係にある鳥なのだろうか。現代の我々にとっても、烏はカナリヤやウグイスと違い、どことなく薄気味悪さを感じさせる鳥だろう。同じように熊野では烏は人間に親近感を抱かせる鳥どころか、恐ろしい鳥なのである。
 熊野三山を訪れた人ならば、牛王符を知っているだろう。社務所でみやげ物として販売している。
ヤタノカラス
 神武天皇が東征途中、熊野山中で道に迷ってしまい、そのとき天照大神が道案内に遣したのが八 咫 烏だった。「咫』は親指と中指を開いた長さで4寸という。すると八咫烏は3尺2寸(約1メートル)の大烏である。今の世代は日本書紀や古事記を読まないから八咫烏は知らないが、日本サッカー協会のシンボルマークになっている三本足の烏である。この八咫烏の故事によって、烏は熊野三山の使いの鳥になった。
 その牛王符を広げると、中央に赤い牛王印がひときわ大きく押され、紙一面に数十羽の烏が、当たり前のことだが、黒く刷りこまれている。烏の数は三山により異なっている。
 この牛王符は家の入口に張って盗難除けにしたり、厄祓いの神札にもしていたが、もともとは起誓文が主たる用途だった。
 戦国時代に武士が同盟を結ぶときなどに、この牛王符の裏に誓約の文言を書き入れ血判を押す。そして、文言の最後に必ず、梵天、帝釈天、四天王以下、日本国中の神にかけて、誓約書の内容を忠実に履行することを誓う。違反した場合には、殺されることも含め、いかなる神罰でも蒙る決意のあることを披瀝する。後世には吉原などの遊女たちが客との心中立てにこの牛王符の起誓文を乱発した。
 起誓文に刷りこまれた烏は日本国中の神に、その誓約者が誓約書の内容に違反したことを告げる死の鳥なのである。一枚の起誓文が書かれるたびに、熊野では烏が三羽死ぬともいわれている。
 また、屋根の上で烏が鳴いた家では死人が出るといわれた。それはそんな古い昔のことではない。烏は死を予言する不吉な鳥でもあった。烏のイメージは死のイメージである。
 しかし、烏だけではない。熊野そのものが古くから死のイメージを持った山なのである。那智大社の神のイザナミ命はこの熊野で死んでいる。また、同じ那智の滝の地主神である大己貴命は、天つ神との戦いに敗れ、出雲の地に身まかる。そして出雲大社へ入った。
 そればかりではない。大己貴命とともに日本の国家を建設したと日本書紀にある少彦名命も、熊野の海から常世の国に旅立った。
 那智の浜の補陀落寺には江戸時代、この少彦名命と同じように海の彼方の常世の国を目指して小舟で岸を離れ、渡海入定を果たした僧侶たちもいる。寺の境内の一角には、その小舟の模型が展示されている。
ケツジョウ
 時宗の開祖一遍は本宮大社の証誠殿で信心 決 定 した。彼は夢に現れた白髪の山伏が告げる熊野の神の託宣で生死の迷いからさめたのだった。時宗は同じ浄土教の浄土真宗や浄土宗の中でも、もっとも死に近い宗教である。すべてを捨てる教えである。命を捨てることをさえ厭わぬ教えである。時宗と熊野権現とが親近するのは、死を媒介にしているからである。
 だから、種蒔き権兵衛は烏を追い払ってはいけないのである。たとえ三度に一度でも「追ってはならない」鳥なのである。追い払えば、死をも呼びこみかねない鳥なのだ。
 山伏はその熊野の山中で、死を克服し生きながらに成仏すべく、荒行に次ぐ荒行を重ねた。山伏は烏の恐ろしさを知っていた。そして、種蒔き権兵衛もまた烏の恐ろしさを知っていた。やはり種蒔き権兵衛は熊野の山伏であった。彼が落命した馬越峠には修験道を開いた役行者の建立と伝える岩屋堂が残っている。
 二人の権兵衛は寛文縁起と延享縁起とに現れた。そして、両縁起とは別に、山伏として樽の権兵衛と種蒔き権兵衛という二人の権兵衛もまたいたのである。
「権兵街が種蒔きゃ…」は光明真言の替え歌ではないか
 最後に付け加えたいことがある。この「権兵衛が種蒔きゃ……」は、光明真言の替え歌ではなかろうか。
 「権兵衛が種蒔きゃ……」の歌詞と光明真言を片仮名で並べてみると、よく似ていることがわかる。目を閉じて、文字を見ずに歌詞と光明真言を少しずつ発音すると、その類似はもっとはっきりする。
「権兵衛が種蒔きゃ」
ゴンベガタネマキャ
カラスガホジクル
サンドニイチドハ
ホラズバナルマイ
光明真言
オンアボキャ
(ベイロシャノウ)マカボダラ
マニハンドバ(ジンバラ)
ハラバリタヤ(ウーン)

 しめやかに執り行われる葬儀で、僧侶たちが読む経の文句や司会者の告げる式次第などを冗談や笑いの対象とすることは、今でもよく聞かれるところである。
 肉親を失った悲しみや極度の緊張を紛らしたり、死の恐怖から逃れるために、人は厳粛であるべき葬儀を笑いの対象にせざるを得ないのだ。一種の代償行為である。
 この種蒔き権兵衛の歌も、そのような意味で、昔の人々が涙して聞くべき光明真言を戯画化したものだろう。
 このようにして種蒔き権兵衛の歌がまず生まれた。それから熊野の人々は、この権兵衛に日頃見慣れていた山伏や僧侶(彼らが光明真言を唱えていた)の姿をイメージした。これが種蒔き権兵衛の生まれたばかりの姿であろう。
 その上に鉄砲を肩にする猟師や農作業をする農民を重ね合わせて、種蒔き権兵衛の原像が少しずつ膨らんでゆく。
 こうしたプロセスを経て種蒔き権兵衛の物語としてまとまり、その人物像も固まったのだろう。
真言の替え歌をもうひとつ
ダラニ
 これを三枝庵の奥田師に話したところ、師はこのような真言や陀羅尼の替え歌はほかにもあると教えて下さった。以下、それを説明しよう。
 大悲心陀羅尼(別名を千手千眼心呪)という陀羅尼がある。なお、陀羅尼とは真言と同じく梵語で書かれた短い呪文のことである。
  次のように唱える。
「ナムカラ タンノウ トラヤヤ」

 これは上の光明真言と同じように葬儀のさいに僧侶が呪するもので、「安心してあの世に旅立て」と死者の霊を励ます意味である。
 これに対し「飲むから足りない寅や」という替え歌がある。名前が寅という寺男は酒飲みで、いつも酒ばかり飲んでいるから、酒がいくらあっても足りないという意味だそうである。
 種蒔き権兵衛の俚謡と同じよう替え歌と梵語を二つを並べてみよう。
 まったく光明真言と同じ発想によって陀羅尼が替え歌に変わっていることがわかる。
「替え歌」
ノムカラ(飲むから)
タリナイ(足りない)
トラヤ(寅や)
大悲心陀羅尼
ナムカラ
タンノウ
トラヤヤ

 ところがこれだけではない。ズンベラとよく似た音を持つ語を名とする祭があるのだ。
 それを見るために、我々は日本列島を縦断して、一挙に目を太平洋の熊野灘から日本海側に転じなければならない。
ゾンベラ祭
 石川県鳳至郡門前町は能登半島の西海岸にあって、北は輪島市、南は能登金剛で有名な富来町にはさまれた小さな町である。江戸時代には海産物を運ぶ北前船が行きかい、湊町として隆盛を極めていた。
 ここに石川県の無形民俗文化財に指定されている「ゾンベラ祭」という名の祭がある。町内の鬼屋神社(神明社)で毎年2月6日に執り行われるもので、豊作を祈って神前で田作り・種子蒔き・牛飼い・田植えなどの農作業を「農之次第」の詞章を唱えながらユーモラスに演ずる田遊び神事である。いわば豊穣の予祝行事である。
 この祭をなぜ「ゾンベラ祭」と呼ぶかを門前町役場に問い合わせたところ、祭のなかの畔塗りの囃子言葉「ゾンブリ、ゾンブリ」から来ていると考えられるという回答を得た。水がたくさんある意味だという。
 小学館発行の日本国語大辞典によると、ゾンブーリとは音を立てて水中に飛び込んだり、水を渡ったりするときの音だという。ザンブリ、ゾンブリコなどが類語としてあげられている。
 しかし、数ある農作業を真似る作業のうちからなぜこの水に関係するゾンブリだけが取り出されて、その祭の名に使われるようになったのか、どうも納得がゆかない。また、祭の名の「ゾンベラ」と囃子の「ゾンブリ」とは同一の語と考えるべきではなかろうか。
 そのとき、門前町役場が送って下さった町を紹介するパンフレットに総持寺祖院があることに気づいたのである。これで私の疑問はほぼ解けた。
ケイザンジョウキン
 総持寺はいうまでもなく曹洞宗の大本山である。南北朝期の元享元年(1321)に瑩 山 紹 瑾が開創した。越前の永平寺とともに栄えたが明治31年の大火で焼失し、本山は横浜市鶴見に移転、門前町の総持寺は祖院となった。町の名の「門前町」は、総持寺の門前に開けた町という意味だろう。
 曹洞宗は道元が開いた禅であるが、はじめは純然たる出家のための禅であった。ところが彼の死後の曹洞宗、とくに総持寺派は農民あるいは下層武士に教線を拡大した。
 道元死後の永平寺は、二世の懐奘、三世の義介と続くが、この義介が宗内の対立で永平寺を追われて加賀大乗寺の開山となった。その門下にいたのが瑩山紹瑾である。彼らは永平寺から独立して総持寺派を結成したのである。
 義介や瑩山の禅には次のような特徴があった。
@義介とその一党は真言宗の出身者が多かった。
A
義介が開いた加賀大乗寺は、地元の有力者が真言僧侶のために建てた真言宗寺院だった。また、門前町の総持寺も瑩山が真言宗の僧侶から譲り受けたものである。
B能登は真言宗が深く浸透していた。

 これらの理由により、総持寺は真言宗の傾向が大で祈祷色が濃かった。そして座禅、祈祷、葬祭という手段で俗人たちの間に浸透していった。
 光明真言がこの地で総持寺の僧侶らによって、あるいはそれ以前からさかんに唱えられていたと想像するに難くはない。例の「オンアボキャーベイロシャノウ……」の光明真言は能登半島に広まったのである。
 種蒔き権兵衛のところで、この光明真言が土砂加持に用いられたと記した。土砂加持のさいの、梵語で光明を意味する「ジンバラ」は、死者の棺を覆う土砂の清めのために唱えられたが、こちらでは農業に重要な耕土の生産力を増すための呪文として用いられたのだった。そして「ジンバラ」が「ゾンベラ」あるいは「ゾンブリ」と転訛したのであろう。「ジンバラ」が畔塗りの囃子言葉となった背景には、このように密教の影響があると考えられるのである。
 なお、このゾンベラ祭が挙行される神明社は総持寺の守護社であった。
静岡県春野町に残る熊野権現の縁起
 では後半部に移る。
 後半部は大阪夏の陣で竜爪権現が徳川家康に加勢し、家康に勝利を収めさせるという内容である。
 この寛文縁起によく似た構造を持つ縁起は他にもある。それがこれから紹介する春野町史の「森山鎮守熊野権現勧請濫觴記」である。
 「濫觴記」によると、周智郡春野町森山地区の鈴木家は戦国時代のころに先祖が近江国から婿入りし、周辺を開発した家柄である。そして代々、八幡宮と熊野権現の神主を勤めていた。縁起の内容をかいつまんで記そう。
 昔、この地方がまだ開発されていないとき、近江国越智郡森山村の郷士鈴木源右衛門が父子三人で関東に行く途中、ここで道に迷ってしまった。親切な夫婦者が気の毒に思い宿を貸してくれたが、源右衛門は病に倒れて死亡し、二人の子供は行く当てもなくなり、夫婦と親子の縁を結んだ。
 兄は槍倉隼人という人物の娘と結婚し、子供も多く儲けた。彼らの努力もあり、徐々に土地が開発されて人も住み着き、村は繁盛した。
 そこで人々は三人の父子に感謝して慶長12年に熊野権現を勧請した。以上が前半の縁起に相当する部分である。
 さて、親子は子供留見(小胡桃。地名である)をも開発したが、ある日、東照御神君様(徳川家康)が信州の戦いからの帰途、ここで一人の女が藤を取っているのに出会い、名を尋ねた。
 女が「お勝と申します」と答えると、家康は「お勝とは吉左右吉左右」と喜び、森山までの案内を命じたので、女は森山までお供し、暑い日だったので水を差し上げた。
 すると家康はたいへん喜び、次の歌を詠んた。
「よろこばし よもやつきなん 森山の
    神のちかいに 七五三縄之内」

 そして、縁起は最後に「誠に以て将軍様御威光有り難き事譬へがたし」と結び、その上さらに「東照御神君様御武運長久のため、八幡大神勧請」と付け加えている。
 前半に縁起の主題を織り込み、後半には家康との関係を強調している。
 それだけではない。後に述べる清地系図(清地望月氏の系図)にも同様な話がある。それを紹介しておこう。ただこれには少しばかり前置きが必要である。というのは、家康の歌の前に武田信玄の歌があるからだ。
 樽の権兵衛の兄である望月佐次右衛門の家の前を武田信玄が通りかかり、投筆で道端の岩に次のような一句を書いた。
「松たへて 武田色ます 明日か事」

 その後、武田氏が亡び、家康が甲州へ入る途中にここを通りかかった。そして、佐次右衛門がお茶を献上したところ、この武田信玄の歌を見て、同じく投筆をもって次の歌を書いたという。
「松たへて 多気田(武田)色なき 明日哉」

 ここに記したような信玄や家康の(作と伝えられる)歌は、戦記物や仮名草子などの潤色のために、ほかにも多く作られていたらしい。たとえば、信長が詠んだという次の歌もある。
「勝頼と名乗る 武田の甲斐もなく 戦に負けて しなの(死なの)なければ」

 これも同工異曲である。
 このように、春野町の鈴木氏縁起と寛文縁起や清地系図の間には共通した発想がうかがえるのである。
 春野町森山と竜爪山とは距離にして90`bである。現在は東海自然歩道でつながる。東海自然歩道はかつては修験者の通る道であり、塩の道でもあった。彼らはこの道を修行して歩いたのである。
 私は二つの縁起には関連があると思う。同じ熊野権現系の神社である。縁起の作成の上で、相互に影響しあったと推定することが当を得ているとはいえないだろうか。
 今のところ、同類の縁起はほかに見あたらない。しかし、私は各地の熊野権現系の神社にこのような縁起はきっとあったと思う。将来、それらの発掘が期待される。