第4節 村上天皇伝説
清水市吉原に残る村上天皇伝説
話を少し前に戻す。第2章で望月氏の祖先は、熊野修験系の山伏として飛騨国濁河の上流の御嶽山の中腹に住んでいたと書いた。もしこれが正しいとすると、解釈が可能となる1つの伝説がある。それが清水市吉原に伝わる村上天皇伝説である。
吉原地区には天王山というところがあり、村上天皇を祀っているというし、この地区には村上姓を名乗る家が多い。村上総本家といわれるお宅には、槍と十六弁の菊の紋章付きの矢などが残されているという。
この伝説はさらに拡張されて、村上天皇の皇子という氷上皇子が、吉原に住んだという伝承も付け加わっている。ただし、村上天皇には氷上皇子という子はいない。
氷上皇子がわが国最初の国師号を勅許されて竜現国師を称したという。吉原にある善原寺は皇子の住居だったと伝えられているし、別に氷上皇子の重臣の末裔という家もある。
村上天皇は第62代の天皇であり、その時代は父の醍醐天皇の時代とともに後世には延喜・天暦の治といわわ、古代の理想的な政治を施した帝王として名高い。
村上帝は康保4年(967)に42歳で崩御し、その御陵は京都市右京区鳴瀧宇多野にあり、葛野村上陵と呼ばれている。
ところが中世以降、理由は明かでないが、御陵の所在が不明となってしまった。元禄以来、その所在地について諸説が立てられていたが、明治22年に現在の御陵が考定された。だから、現在の葛野村上陵が村上天皇陵だという確証はないのである。
村上天皇伝説は岐阜県上宝村にもある
このことが村上天皇伝説の素地になったのだろう。岐阜県吉城郡上宝村に村上天皇伝説がある。推測するに律令政府から飛騨国庁に派遣された役人らが持ち込んだものだろう。そしてその名も同じ村上地区に村上神社がある。
この地区の伝承では、村上帝は脳の病気を患い(これは子の冷泉帝との混同らしい)、その治療のためにわずかの供を連れて奥飛騨に温泉を求めて行幸され、ここ福地温泉で静養されていた。
しかし、その甲斐もなくこの地で亡くなられたという。村人たちは帝の死を悼み、亡骸を山の頂に葬り、「みかど山」と命名し、その後、村上神社を建てたというのである。
しかし、これまでこの神社は二度の火災に遭い、由来を示す文献などはすべて焼失した。残るは口承のみである。
上宝村村上地区と木曽御嶽山との距離は、直線でおよそ50`bである。山を歩き慣れた山伏の足にとって物の数ではあるまい。
望月氏の祖先は村上天皇伝説を知っていた、と私は推定する。そして、この伝説を携えて信濃、甲斐を経て駿河に入ったのだと思う。