望月氏は熊野権現系の山伏だったのである。武将というのは系図の作者が作り出した虚像だったのだ。その上、人々に望月氏が武田氏の重臣であると思い込ませるように、望月氏の祖先たちに武田姓を名乗らせたりもした(その武田氏は清和源氏だから行きつくところは清和天皇となる)。
抖擻(山に入り、山中を駆けめぐり修行すること。本来の意味は、煩悩の原因となる一切のものを捨て去ること)を続けていた。
このような国から国への移動が、系図に現れる人物の順序どおり行われたかどうかはわからない。樽系図には名前だけがあって、注書きは何もないという人たちが多い。彼らは系図の作者が創作した人物だろう。
しかし、それ以外にも望月氏の家系を重々しくするために、作者の創作であたかも実在するかのように系図に名前を挿入したり、注書きを書き入れたりした人々がいるだろう。信頼できる系図上の人物は、権兵衛や彼の父以外にそう多くはないと思う。とにかく、このようにして望月氏の祖先たちは山々を移り歩いていたのだ。
同じ場所に定住できなかったのには、戦国時代という社会の混乱期のさ中にあって、生活の糧を得るために、より有利な壇那(山伏にとっての客である)を求めて移動せざるを得なかったという事情があったのだろう。当時の山伏の壇那には武士が多かったからである。
私は山伏の竹居氏が望月という姓に変えた理由は、信濃の武将の望月氏が、山伏の竹居氏の有力な壇那だったことによるのだろうと考えている。そして、竜爪山に上って山伏活動をするのに、山伏よりも武士の後裔としたほうが、人々に受け入れられ、尊敬を受けやすいと考えた。そこで武将「望月」氏を名乗ることにしたのだろう。
戦国時代の各地の武士団や土豪が、熊野権現を信仰したことはよく知られている。信濃では望月氏ばかりでなく、同族の滋野氏も熱烈な熊野権現の信奉者だった。上野では新田一族がやはり熊野権現を信仰していた。系図が、新田義貞を追って山伏の望月氏の祖先が死んだことにしたのも、徳川家康の先祖というのみでなく、このことも反映しているのではないかと思う。
東京の王子には、地名の元となった王子神社があるが、これも平安時代末に武将の豊島氏(豊島区の区名に残る)が京都の新熊野社から勧請したもので、豊島氏の没落後も太田道潅の一族である太田氏の崇敬を集めていた。
鈴木姓や佐藤姓の者が熊野権現に結びついている例も多い。とくに、東京淀橋の熊野神社は、応永年間に鈴木荘司重邦の後商の鈴木九郎某が紀州から移して来たと伝える。産土神として祀ったのである。
この鈴木氏は、源義経が奥州に落ちるときに供をした鈴木重家の叔父の七郎重善らの係累である。
当時の武士は戦乱の中にあって明日をも知れない命だから、山伏に矢玉除けのまじないや戦勝を祈祷させる。自分の代わりに戦争での無事を祈らせるため、信心する熊野三山に行かせる。これが代参である。
しかし、不幸にして家長が戦死してしまえば、その一家は没落する。山伏も大切な顧客である壇那を失うことになる。だから、次の壇那を求めて移動せざるを得ないし、また常に有利な壇那につくために、居所を変えることもあったようである。
山伏の望月氏は甲斐からさらに駿河に入り、樽を経て竜爪山に上る。これも戦乱によって山伏としての活動が十分にできず、生活上のこともあり、家族ともども駿河に移って来たのだろう。
系図に織田の厳しい追求を避けて、竜爪山に身を隠したとあるのは、上杉謙信、武田信玄、織田信長、徳川家康、北条氏直らの領地争奪戦争で戦場と化した信濃や甲斐では、修行も不十分で験力も獲得できず、壇那も少なくなり、したがって生活が安定しなかったために竜爪山にやって来たということを間接的に語っているのだろう。
また、山伏の中にも決まった山で山林修行を続ける者と、山から山を遊行する者との二種類があった。大峰山と熊野の山を歩く山伏とか、羽黒山の山伏などは定着型といえるのだろう。望月氏はあるいは、後者の型に属する遊行型の山伏だったのかも知れない。
このようにして望月氏の祖先たちは、信濃、甲斐と修験の旅を続けていたのだが、その途中、信濃の祢津で権兵衛の父である望月甚右衛門が、巫女のノノーと結婚したのだろうというのが、私の推定なのである。
日本人は山を異界として考えていた。山は平地の人々には理解が及ばない異文化の地であった。山には里にはいない神が宿ると考えていた。
だから、異界の山に入って修行を続けることで、山伏は験力(現代の超能力である)を獲得し、それによって常人には及ばない数々の奇跡を行う。たとえばふつうの医療では回復もおぼつかない病人を治療するとか、神を呼び寄せるとかである。そのために山伏は祈祷をする。その祈祷の言葉が難解な経文であったり、真言だったりするから、余計にありがたいという気持ちを人々に起こさせる。
山伏の壇那は上に書いたような武士ばかりではない。里に住む人々もいる。里人は山伏に自分たちにはない異質な雰囲気を感じ、恐怖心を持つ。
そして、里人の聞いたこともないような珍しい山の話もするし、いろいろなまじないもする。呪的行為である。「急々如律令」などと呪言を記した護符を配ることも、山伏の大切な仕事だった。これも里人から見れば、なんとなくおどろおどろしくて緊張する。それも山伏への信頼の一助になる。だから祈祷をしても、それを効果があるものとして受け入れてくれる。
上に書いたようなことは、その多くが巫女であるノノーと共通することである。ノノーも、山伏が山中で激しくも厳しい修行をするように、幼女の頃から、神を呼び口寄せをするための厳格な訓練を受ける。彼女たちはノノーに養女縁組し、入籍してその養親からノノーとして教育される。養女の出身地は駿河、遠江、伊勢などにまで広がっている。彼女らも神仏に祈り、まじないもする。
山伏とノノーとは補完するところ大だった。両者が夫婦になることが多かったとは、つとに多くの学者が指摘している。
ところで、山中で生活をすることが多いから、山伏は山の知識が豊富になる。そこで山野に生える薬草から薬を作る。いまでも日本のあちこちに、山伏が考案したと伝えられる薬がある。奈良吉野の陀羅尼助は有名だが、ほかにも百草丸や奇応丸、筑波山のガマの油などがある。伊吹山のモグサも山伏が発明したといわれている。山伏がこれらの薬を病気の治療に使ったのである。祈祷だけで病気は治らない。
ノノーの活動もロ寄せやまじないのみでなく、医療や按術に及んでいた。祢津にはかつて鍼術用の針を製造する工場があった。ここにも両者に共通するものがある。
山伏は山にある鉱物資源にも精通する。だから、金山や銀山にも山伏がかかわった例が多い。武田信玄が山伏を重用したのも、軍資金の金を得るための金山開発の目的もあっただろう。
次に望月氏が熊野権現系の山伏で、あちこちと移動したということは、それぞれの地域に同系の山伏がいて、それと連携を取ったり、一緒に修行していたことを示している。
修行は一人でなく、仲間とともに行うことは、現在の大峰山などの峰入り修行にも現れている。峰入りには危険がともなうから、単独行動は死につながる。崖から転落することもあれば、道に迷って餓死することもある。狼や熊に襲われることもあった。
山伏に法羅貝はつきものだが、法羅貝についている長い紐はザイルの役目をする。「法羅を吹く」ためにだけ、所持しているのではない。
また、瀧に打たれるような修行は一人でもできるが、修行そのものが一人では行えないものもある。たとえば、絶壁からの
「覗き」の修行である。数人の仲間に自分の体を縄で縛らせ、その縄の端を仲間に持たせて、高い崖から身を乗り出し、果ては頭から宙吊りになる。この「覗き」とはかつての捨身行の代わりとなる修行である。
私は望月氏が竜爪山に上り、定住を始めたのも、同じ熊野権現系の山伏仲間から、竜爪山が後に説明するように古くから熊野権現にゆかりのある山として聞かされていたからだろうと思う。
そこで、先ほど説明を延ばしていた武田氏と瀧氏との関係だが、実はノノーの伝承として、ノノーを取り締まる役に初めて就
いたのは、武田信玄の弟の妻だったという。名は定かでないが、信玄の弟が戦死し、未亡人となったその妻がノノーの 頭 となったというのだ。
ノノーを取り締まる役についての伝承にはもう一つある。
祢津の草分けの滋野氏は古く佐久、小県両郡に絶対的な力を振るった豪族だった。その後、滋野氏系の望月盛時という者の妻が、武田信玄の朱印を得て甲信二国の巫女頭となり、祢津に土着したというものである。
ことによると、系図の作者は望月氏との関係から、この望月盛時のことも一部考慮に入れて、系図に祢津を加えたのかも知れない。
これで山伏の望月氏がノノーと結婚したことの説明を終わる。
瀧重太夫は木曽御嶽山の瀧氏から創作した名
ところで、山伏の甚右衛門と結婚したノノーの父が、瀧重太夫であると結論づければ問題はないのだが、この瀧重太夫という名はどうも実名ではなく創作されたものらしい。瀧氏という姓がそれを示すのだ。
それでは説明を延ばしていた望月氏の旧姓である「竹居」(武居)氏と、この「瀧」氏とが、どのようないわれのある姓なのかをここで明らかにしよう。
前に書いたように望月氏の祖先は木曽御嶽山の近くに住んでいた。この御嶽山の麓の黒沢(現在の長野県三岳村)と王瀧(同王瀧村)には、御嶽山を遥拝するための里宮があり、これは今日まで存続している。その黒沢里宮の神官が竹居氏であり、王瀧里宮の神官が瀧氏なのである。
もともと両氏は諏訪神官の出であるといわれている。
御嶽山研究の第一人者である生駒勘七氏は、両氏が同根であることは、両氏とも姓に「タケ」という御嶽の「タケ」という音を含んでいることからも推定できるとされる。
私は瀧氏はこの御嶽の瀧氏から取った姓だと思う。というのも、前に述べたように望月氏の旧姓が竹居氏であったことによる。望月氏=竹居氏に対抗するために、御嶽の神官として、竹居氏と相拮抗して由緒も深く、伝統のある瀧氏の姓を重太夫に冠したのである。
それを証明するものがある。御嶽の瀧氏の系図である。その初代の名は春重とある。
瀧家系譜によると、春重は戦国時代に長く御嶽山の神官を勤め、以後、その神官職は世襲されてゆく。
春重はまた右衛門太夫あるいは王大夫とも称していた。私は春重、右衛門太夫、王太夫などの名から瀧「重大夫」の姓名が考案されたと考えるのである。
白鹿を撃った権兵衛の神がかりも創作
さて、もしノノーと権兵衛の父の甚右衛門が結婚したという私の推定が正しいとすると、次のことが説明できるのである。それは寛文緑起や樽系図に記された権兵衛の神がかりである。彼は母に似たのである。彼の母がノノーとして神降ろしをするとき、彼女は神がかり状態になる。これとまったく同じことを権兵衛はしたのである。あるいは神がかりする能力が、母から権兵衛に伝えられたといえるのかも知れない。
だから両文書がいうように、竜爪権現の使いの白鹿を撃った神罰が原因で権兵衛に神が降りたのでもなければ、むろん乱気(乱心)したのでもなかった。
さらにつけ加えると、寛文緑起では権兵衛が撃ったのは白鹿となっている。鹿も
羝 羊も老いると体毛が白く変化し、さらに年を重ねると毛が抜ける。人間とあまり変らない。
しかし、鹿は昔から穂積神社あたりの竜爪山中には棲息していなかったという。
たしかに穂積神社の鎮座する平山には射止めた鹿を剥製にして飾っているお宅も何軒かある。訪問先で玄関の下駄箱の上方の壁から、長い二本の枝角が生えた鹿の首が眠そうな目をしてこちらを見おろしているのによく出会う。あの鹿である。
だが、そのような鹿は竜爪山で仕止めた獲物ではなく、三重県など関西方面で撃ち止めたものなのだ。だから、樽に住んでいた権兵衛が撃ったのは鹿ではないことになる。
では、カモシカだろうか、カモシカは現在でこそ餌が少なくなって人家近くに出没するようになり、穂積神社の近傍でも見かけられるが、2、30年前には清水市大平あたりから以北でしか見られなかったという。私は身延からさらに山に入った山梨県早川町で何度かカモシカの肉をご馳走になったことがある。牛肉に似ているが、脂身が少なくさっばりとして実に美味であった。
ところがカモシカは一頭で山を駆けめぐり、鹿のように集団行動はしない。
寛文緑起は鹿が16頭で歩いていて、そのうちの一頭を権兵衛が撃ち殺したと述べているから、カモシカではないことになる。
以上のことからわかるように、寛文緑起や樽系図の作者が権兵衛には当然の神がかり現象を神秘化するために、自分の経験からではなく、伝聞や書物からの知識を机上でまとめて、このような白鹿射殺事件を作り上げたのだろうと考えられる。
系図と寛文縁起は徳川家康との関係を強調
さて、系図の人名は、徳川家康と望月氏との緊密な関係を力説することが一つの目的だった。家康の幼名竹千代を、自分の祖先の一人の名に使ったり、徳川家の先祖とされる新田義貞の死に殉じたりして、忠義一途の奉公ぶりを見せている。
また、山伏などが住んだこともない甲斐竜王に望月氏を送り込んでまで、家康の善政を強調した。山とは勝手の違う川沿いの竜王に住んだら、山伏である望月氏の祖先も山中修業もできないから退屈するだろうが、そんなことは系図の作者の眼中にはない。ただただ、家康の意を迎えようとするのみである。
このような書き方は、寛文縁起の後半部でも見られたことだった。竜爪権現が大阪夏の陣で、東軍の兵士に乗り移ったり、兵糧の米を補給したり、家康のために八面六膂の働きをしたことを思い出していただきたい。あの描写は、系図が取る家康追従の態度と同じなのである。