望月氏については、古くから甲斐武田氏の武将であるという説が有力であることは前にも述べた。望月氏の先祖の多くは、後にくわしく述べるが、飛騨守や越前守などの受領名(受領とは任命された国に赴いて仕事をする国司。国司の中には任命されても現地に赴任しない者もいた)や大膳太夫や佐衛門尉など古代の法令の官職名を持っている。
しかし、望月氏武将説はこれから述べようとする望月氏の系図を無条件に信じたことから生じたものであり、系図以外に望月氏が武将であったことを証明する客観的史料は何もない。だから、望月氏の出自を明らかにするには、望月氏の系図を先入観にとらわれずに分析する以外にない。
なお、望月氏の系図としては、ほかに「望月氏の歴史と誇り」という本のなかに掲載されているものがある。これは長野県望月町(全国の望月氏の発祥の地である)の大伴神社宮司の金井重道さんと望月政治さんが昭和44年に書かれた本である。
ここには収集される限りの望月氏の系図のほか、望月氏の興亡史、この本が発行された当時の全国の主な望月氏の動向(簡単な系譜と家紋の説明までも付く)、望月姓の有名人の紹介、はては長寿者も紹介されており、いわば望月氏の百科辞典ともいうべき書物である。
ただ、残念なことに斉藤諭氏がいかなる人物なのかわからない上に、この系図は原典でなく活字だし、内容も樽系図(これは原典からのコピーである)のほうがくわしい。私が分析の材料として樽系図を選んだのはこのような理由からである。
3番目のものとして、樽望月氏からわかれた布沢望月氏の子孫にあたる清水市布沢の望月さん所蔵の系図がある。清地望月氏に伝わっていたもので、望月さんの祖父にあたる方が書写された墨筆のものである。
しかし、残念ながらそれ以前にも何度も書写を経ているらしく、権兵衛以前の部分は樽系図とほぼ一致するが、以後の部分には錯簡や誤字が目立つ。行が飛んでいたり、前後の関係がはっきりせず、意味が取れないところも多い。
ただ、権兵衛以後について、樽系図にはない重要な伝承が含まれていて、延享縁起を分析するには欠かすことのできない系図である。このため、この系図はあとで延享縁起を検討するさいに引用することとし、当面は樽系図のみを使って謎解きの作業を進めることにしたい。
系図は清和天皇に始まっている。そして武将である望月氏にふさわしく、八幡太郎義家や源為義など、歴史上の名だたる武将の名が系図を飾っている。
しかし左馬頭義仲(表中の太線の上)までは単なる人名の羅列のみである。
それぞれの人物についてなんらかの行為や事績が注書きの形で語られるのは、義仲の後の右馬頭太夫義旭から以後である。だから、私は義旭から以降の人物の注書きについて分析を加えてみようと思う。なお、系図中「中略」とあるのも、やはり人名のみで注書きが何もない人物なので、表には掲載しないことにしたものである。
さて、注書きを見て気付くのは、多くの地名と人名が記されていることである。
まず、地名から見よう。飛騨に始まって信濃、三河、遠江、甲斐、駿河と六ヵ国にわたっている。これを整理すると以下のようになる。(かっこ内は現在の市町村名。なお、地図を参照のこと)。
北濁川の山
望月
海野
柏木
上田原
長篠
三方原
竜王
(小坂町)
(望月町)
(東部町)
(小諸市)
(上田市)
(新城市)
(浜松市)
(竜王町)
居 住
居 住
一時的
一時的
一時的
一時的
一時的
居 住
万力筋の桜井、松本
駿河国
長田
樽
竜爪山
(牧丘町)
(静岡市)
(清水布)
(静岡市)
居 住
一時的
居 住
居 住
居住した地
戦争に出陣したり、出迎えなど一時的に赴いた地
これからわかるように、武将の望月氏はまず飛騨国の濁川上流の山中の城に住み、次いで飛騨守義胤のとき信濃国望月の望月城に移り、ここで姓を望月氏と改め、それから越前守義実のときに甲斐国に入って竜王に住んだ。そして、武田信玄の父の信虎に仕えて万力筋に領地を拝領した。それが権之頭義友のときである。
武田勝頼の死で武田氏が滅亡すると、甲斐国から駿河国に入った。これが権兵衛の父の甚右衛門義豊のときである。駿河国ではまず中河内樽に住み、そして竜爪山に落ち着いたということになる。
その間には、古くは新田義貞に従って越前で戦い、祖先の1人、飛騨守義胤は義貞に殉じて自決している。
また、武田氏に服属してからは、豊後守義隆のように海野、柏木、上田原の合戦に参加して活躍し、権兵衛の父の甚右衛門義豊も三方原や長篠の戦いに出陣した。
活躍したのは戦争ばかりではない。信濃守義直は勅使下向のさいには、わざわざ駿河国長田まで出迎えの使者に立った。対朝廷外交でも望月氏は重要な役割を果たしていたのである。
ずいぶん広範囲に動いたものだ、というのが私の率直な感想である。現代と違い世は群雄割拠の戦国時代である。武士は家の子郎党の結束を固め、おのれの領地を死守していた時代である。油断すれば、直ちに敵に領地どころか生命をも奪われかねない。
そればかりではない。この時代は土地が唯一の生産手段だった。土地から生産される米が人々の生活のすべてを決定した。兵農分離は豊臣秀吉の刀狩以降だから、もっと後世である。将軍の命令一つで、藩主が国替えをさせられるのは江戸時代のことだ。
戦国時代、兵は農民でもあった。ふだんは農業に従事していて、事あるときに武器を取って戦争をした。だから、この当時の戦争は収種期は避けている。食糧が確保できなければ、戦いどころではない。
にもかかわらず、望月氏は一つの土地に定住せずに転々と居を移す。どうしてそのようなことが可能だったのだろう。武将ともなれば、部下の兵も10人や20人はいたろう。それらの兵をその家族も含め、どのように養っていたのだろう。
疑問はまだ続く。なぜ、何度も移動する必要があったのか。しかも望月と竜王に移った理由は何も書かれていない。この2つの地などは寄り道せずに一気に通過し、早く武田氏に仕官して甲斐国に定住し、じっくりと武将としての実力を蓄えたほうがよかったのではないかと思う。
まだある。武将として武田氏に仕えたのだから、武田氏の命令に従い各地の合戦に参加するのは当然だが、次に述べるようにその合戦の地が問題なのである。
合戦の地がおかしい
信濃の川中島合戦は前後五回にわたって戦われたとされている。そのうち上杉謙信が武田信玄の陣に単身斬り込んだ永禄4年(1561)の戦いは、世にも有名な合戦だから、それに参戦するのは武将の望月氏としては武門の誇りというべきだろう。そして、鬼児島の異名のあった越後の豪傑児島弥太郎を討ち取ったというのは他人には真似のできない大手柄であるから、系図が特筆大書するのは当然である。
だが、その場所は海野とある。海野は川中島から千曲川に沿い、更埴市、上田市と南下して、現在の地名でいえば小諸市の手前の長野県小県郡東部町にある。川中島とは50キロbほど離れている。ずいぶん戦場から遠いところで、児島弥太郎を討ち取ったものである。
そればかりではない。人名辞典などではこの児島弥太郎は架空の人物として扱っている。もし児島弥太郎が実在しなかったとしたら、この手柄話そのものが空虚な自慢話に過ぎなくなる。
柏木の合戦などは甲斐の歴史書はあまり取り上げていないから、小ぜりあい程度の戦いだったらしい。なぜ、そのような小規模な戦いの地をあえて記したのか。
さらに上田原の戦いである(系図は天文15年としているが、史実では天文17年である)。これは当時北信濃を支配していて、越後上杉側の信濃における先兵であった村上義清を信玄が攻撃した戦いだった。しかし、戦いは信玄の負け戦だった。信玄は板垣信方や甘利虎泰など子飼いの武将を失ったばかりか、彼自身も負傷してしまった。彼の初めての敗戦だった。
だから系図は豊後守義隆が、怪我をした信玄の側近として仕えたことを強調して、馬廻り役を勤めたとしたのだろうが、そのような負け戦をなぜ系図に取り上げたのか。主君信玄の名誉にかかわることである。
私は会社員だったころ、仕事で山梨県の甲府市はじめ身延町や早川町などに頻繁に出張した。ほぼ10年間に300回ほどになるだろう。
今日でも山梨県人の武田信玄に対する尊崇の念はすこぶる強い。甲府駅前に立つ眼光鋭い信玄の鎧武者姿を見てもわかる。だから仕事が終わると、まず一献、ということになるが、宴たけなわとなるや、
甲ーァ斐ーィのォ、山やァまァー
日にーィ映ァえーェてー
と唄いはじめるのだ。
信玄死して400年を経てすらこうである。まして豊後守義隆は信玄が天下を睥睨していたときの側近だったのである。畏敬すべき主君の敗戦を系図に記録するなど武田恩顧の武将のなすべきことではあるまいと思うのだが。
同じ戦争を取り上げるのならば、天文17年(1548)の小笠原長時を塩尻峠に破った戦いにすべきであった。これは信玄の信濃侵略戦のなかでも有名なものである。この戦いで信玄は信濃制覇に向け、大きくその一歩を踏み出したといわれているのだ。
ほかにも信玄の勇猛を遺憾なく表した戦争としては、天文11年(1542)の諏訪攻めもある。信玄はここで諏訪の名門諏訪頼重を滅ぼし、その娘との間に後継の勝頼を儲けているのである。なぜ、これを取り上げなかったのだろう。
三方原の戦いは、信玄が徳川家康を敗走させて大勝利をおさめた戦いだったから記したのだろうか。とすれば、長篠の合戦は主君武田勝頼が織田・徳川連合軍に破れ、武田氏滅亡のきっかけになった戦争である。上田原の戦いと同じように、そっとして触れないでおくのが主人思いというものではなかろうか。
戦争ばかりではない。天文5年(1536)の三条転法輪藤大納言の出迎えのことも不可解である。藤大納言の甲州訪問は史実にもあることだが(ただし、藤大納言は勅使ではない)、なぜわざわざ駿河国長田まで出迎えたのだろう。長田から甲府はまだかなりの道のりである。
藤大納言が東山道を利用してくれれば、美濃国との国境にある神坂峠や、木曽から信濃への出口にあたる鳥居峠などへ迎えに出ればよかったはずだ。大納言が東海道を下りたかったのなら、富士川の舟運に便利な江尻や蒲原の宿まで出向けばよい。また、身延道を通って甲府に入るにしても、長田では中途半端で出迎えとはいえまい。
なぜ「樽」の地名にこだわるのか
最後の疑問は中河内樽である。これまで系図に現れた地名は、どんなに小さくとも現在の大字の地名どまりである。たとえば、望月は現在の望月町であり、松本は石和町松本である。ところが系図は、樽についてだけはなぜか中河内とせずに、その下の小字にあたる樽までを記している。中河内ではなく中河内樽としているのである。
なぜだろう。系図は樽にこだわっているが、どうしても樽という地名を記さなければ満足できなかった理由でもあるのだろうか。
地名の意味するもの
さて、数々の疑問のあるこれらの地名をどう考えるべきなのか。
私は次のように推理する。まず系図の作者は飛騨、美濃、三河、遠江、甲斐、駿河の六カ国にある数多くの地名のなかから、特定の地名をある意図のもとに注書きに選択した。そしてその地名に適合するように、武将としての望月氏の手柄話や城のことや仕官の話などを適宜、配置したのだ、と。
では、作者の意図とはどのようなものだったのだろう。私は系図に現れた地名について、それらの地がどのような歴史や宗教を持ち、伝承が残されているのか一つ一つチェックした。それによって、作者の思うところに近づくことができると予想したのだ。
案の定、これらの地はある共通した特徴を持っていることがわかったのである。
以下、望月氏が移動した土地の順に説明しよう。
◆飛騨国北濁川
北濁川は現在の岐阜県益田郡小坂町濁河である。これは濁川とも書いた。飛騨川支流小坂川の上流部をいい、益田郡内の御嶽山北西部の6合目ないし7合目の濁河温泉付近に源がある。系図がいうとおりの「山中に居城した」である。
地図を見れば明らかのように、ここからは木曽御嶽山が至って近い。現在でも御嶽登山道が飛騨川沿いにつけられている。
御嶽山はいうまでもなく山岳信仰の山として著名である。伝承は奈良朝の光仁天皇宝亀5年(774)に御嶽山上に社が創祀されたとしている。これほど古くはなくとも、10世紀前半、醍醐天皇の延長年間には登山道が開かれた、と現在残る「御嶽座王権現縁起」は記している。古来、霊山としてその秀麗な山容が多くの人々の信仰の対象になっていたのである。
そして、ここは古くから熊野権現の影響が大きかった。
まず、上に挙げた「御嶽座王権現縁起」は熊野権現の由来を記した御伽草子の「熊野本地草子」と酷似しているといわれる。
室町中期に書写されたという祭文(祈願や祝い呪いなどの心を神仏に奏上する文。あわせて神仏のありがたさや御利益などを人々に説明するためにも用いた)が、御嶽山に残っているが、これも奈良の大峰山や熊野修験に関するものが多い。山伏は祈祷のほかに、この祭文を使って人々を教化したのである。「円空仏」で有名な円空も山伏で、祭文を誦していたという学者もいる。
また、山上に祀られている祭神は38所というが、この中には若宮・三所権現・金剛童子・王子・飛滝権現など、熊野権現に関わりのある神の名が多い。
縁起や儀礼、祭神などに熊野権現の影響があるくらいだから、室町時代には熊野修験系の山伏たちが住み、御嶽山中で修行に明け暮れていた。そして、彼らの念持仏でもあり本尊でもある金剛蔵王権現や不動明王を祀っていた。
◆万力筋の桜井、松本
万力筋は現在の山梨県甲府市および石和町の一部、それに春日居町と牧丘町との全域を含む笛吹川の西岸一帯をいう。
ここは竜王、近津と並ぶ中世の甲斐における三大水防難所で、「万人の力を合わせたような強固な堤である」ことを願ってつけられた地名といわれている。
この万力筋の北、信濃国との境には標高約2600bの金峰山がそびえている。
ここは平安の中期から後期にかけて修験道が発展した山で、頂上には金剛蔵王権現を祀っていたし、修験者の籠堂もあった。山の名も吉野の金峰山を移したといわれており、富士山とともに甲斐国における山伏の修行の霊場であった。
金桜神社は万力筋の総鎮守だが、この神社は金峰山の里宮であり、熊野修験とはいたって関係の深い神社である。熊野那智大社文書のなかにも、ここの山伏と壇那との関係を物語る文書が残されている。
また、万力筋にある現在の牧丘町室 伏は、その地名の由来が里に降りて定着した山伏を「村 伏」と呼んだことからでたという説もあるほどである。
もともと甲斐国は熊野信仰がとくに盛んな国であった。古代の荘園の権利をめぐる争いの鑑定書ともいうべき長寛勘文で有名な甲斐国八代荘は、熊野に幸すること10回という白河上皇が熊野に下賜された荘園であった。
そして、八代荘には多くの熊野神社が勧請されたが、その八代荘が立地していた現在の八代町の熊野神社や笛吹川の対岸の塩山市の熊野神社はとくに著名である。
◆柏 木
柏木は現在の長野県小諸市である。
ここには、修験者の普請役を免除した武田信玄の免許状が残っている。戦国時代に入ると、白河上皇寄進の八代荘はじめ甲斐に立地していた多くの荘園は崩壊し、武田氏の支配下に入るようになる。
信濃の侵攻の必要から、武田信玄はこれらの荘園や山にいた山伏を保護し、秘密外交の手先として、また軍事探偵として利用していた。それがこのような恩典を山伏に与えることになったのである。
◆長 田
現在の静岡市である。駿河もまた遠州と並び、平安期から熊野三山と深い関わりを持っている。駿遠両国には熊野三山の神領が点在していたが、この長田にも熊野那智大社の長田荘が平安時代末期から存在していた。長田荘は両国内の熊野三山所有の荘園のなかでももっとも伝統あるもので、熱烈な熊野権現の信者だった鳥羽天皇の皇后美福門院の寄進によるものだった。
◆三方原(二俣と犬居)
三方原の戦いは武田信玄が徳川家康に完勝した戦争である。この戦いで、信玄は二俣や犬居などにあった家康の諸城を落として浜松城に迫った。
しかし、系図の作者は信玄の勝利をいわんとして注書きに記したのではなさそうである。彼がいいたかったのは、二俣と犬居についてであった。
まず、二俣は南北朝時代からある古い郷名で、熊野速玉大社の古記録にあるのが初見である。
ここは速玉大社の本社の造営料所として古くから同社とは縁が深かった。すなわち、文和3年(1354)に後光厳天皇から速玉大社に造営料として寄進されたもので、毎年十二石二升九合の年貢が課せられていた。
次に犬居である。
ここには火の神、防火の神として信仰のある秋葉山がある。この山も修験道の色彩が濃い山である。
秋葉寺縁起が語るところでは、三尺坊大権現(秋葉大権現)は越後国蔵王堂十二坊の1つである三尺坊で不動三昧の法の修行を積んだ。その甲斐あって飛行自在の法を得た。そして白狐に乗って秋葉山に飛来した。
秋葉山は天台修験系の影響が強いという。三尺坊が山伏の本尊である蔵王権現を祀った蔵王堂の出身で不動三昧の法を修行していたこと、またその身の軽かったことから見ても、彼が修験者だったことは間違いあるまい。飛行自在の法も修験道の祖・役行者に似ている。
なお、学者の一部は三尺坊を捨身行者と見なしているが、この捨身の行も山伏の行の1つにほかならない。
◆長篠(鳳来寺山)
史上有名な長篠の合戦は設楽原で行われ、織田・徳川連合軍の勝利に終わり、武田勝頼は敗北した。この戦い以降、武田氏は滅亡の道を歩むことになる。
この設楽原から10キロb足らずの距離にある山が鳳来寺山である。現在の鳳来寺は真言宗五智教団であるが、白鳳元年(672)に利修仙人が入山したのに始まる。彼は309歳で入定した。
寺名は煙巌山鳳来寺というが、寺号は利修仙人が文武天皇の病気平癒を祈るために、参内するときは鳳に乗って往来したことによるし、山号は仙人が護摩を修した岩窟にちなむものである。このような逸話を持つ利修仙人が修験者であったことは明かである。
鎮守は一宇三社の形式だが、熊野本宮・山王地主権現・白山権現で、名の示すとおり有名な修験の山々の権現が祀られている。
また、熊野那智大社文書にも鳳来寺の名が記載されている。熊野本宮大社のみでなく、那智大社ともなんらかのつながりがあったと考えられる。
残るは樽と竜爪山だが、このうち樽については、後ほど武田氏との関係のところで説明することにする。竜爪山も次章で説明しよう。
それでは、右に挙げた地以外の信濃国の三つの地名、望月、海野、上田原はどのような目的で記したのだろう。取りあえず、望月について述べておこう。
◆望 月
ここ望月は周知のように望月氏という姓の発祥の地として知られている。系図はこの地で望月氏と姓を改めたと記す。
しかし、私は改姓はこの望月でなく、理由はあとに述べるが、次の居住地の万力筋だったと考えている。
それでは、なぜ系図は改姓を望月の地で行なうようにしたかということだが、それは次のような理由からである。
系図の作者も、望月が望月氏の姓が生まれた地であることを知っていた。そして、望月に居住させることで、改姓に説得力を持たせようとしたのだ。望月氏と縁のない万力筋で改姓したのでは、系図を読む人が納得しないことを系図の作者は危惧したのである。
明治維新によってすべての日本国民が姓の使用を許されるようになり、人々は仏典から借用した語句、身近な動植物の名、住んでいる土地の地形をあらわした姓などを名乗った。
古くは居住地や所領地を 名 といった。 名 こそが名字(苗字)の源だった。公家には近衛や九条などの称号があったが、武士の苗字はほとんどがこの名から採られた名字だった。
だから武士の住む土地は、その武士や一族の名字すなわち姓を正当化し、正統性を保証するものだった。その土地に根ざした姓を持っていることで、武士は社会的な信用が得られたのである。
このような理由で、系図の作者はどうしても望月氏を望月の地に住まわせて、ここで望月氏に改姓させなければならなかったのである。
改姓前の望月氏は竹居氏だった
それでは、「望月」と改姓する前の姓は何という姓だったのだろう。
系図からは「望月」以前の姓は「源」氏ではないかとも思われる。樽系図には清和天皇に始まる源氏の名将がずらりと並んでいるからだ。しかし、私は望月氏の以前の姓は「竹居(あるいは武居)」氏であったと思う。なぜ、唐突に竹居氏なる姓が出現するのか意外に思うかも知れないが、これにはわけがある。
姓氏家系辞典中の甲斐の望月氏の項には、次のように記されている。
「(略)室伏村の望月氏は『もと竹居氏、母姓望月を冒す(他人の姓を借りること)』」。
私はこの記事を採用したいのだ。
上に述べたように、望月氏は室伏が属する万力筋に住んだ。室伏は万力筋の桜井、松本にほど近いのである。したがって、この万力筋で竹居氏は望月氏と姓を改めたのである。
では、竹居氏とはどのような姓であり、これを名乗った人々はどんな由緒を持ち、どんな職業だったのだろう。
これについては、後の滝氏の出自を扱うさい、海野と上田原の地名とあわせて説明しよう。
滝重太夫とは何者か
次は滝氏である。
前にも記したように、滝氏の名は系図のなかで権兵衛の父である望月甚右衛門の注書きに「滝重太夫」の名で現れるのが最初である。
この滝重太夫の娘が甚右衛門の妻となり、権兵衛の母となるのである。そして、権兵衛の妻も滝氏の娘だったと系図は記している。ところが滝重太夫以前の滝氏について、系図はそれ以上何も語ろうとしない。
権兵衛以降、滝氏の姓が系図に記されるのは、権兵衛の死後、息子4人のうちの2人、すなわち勘之丞と半之丞(それぞれ平山村と吉原村に住む)が滝氏を名乗ったので、その子孫のみである(ただし、古今萬記録や清地系図では、上の両滝氏のほかに、吉原滝氏からのちに分家した布沢滝氏がある)。
ところが前にも書いたように、滝重太夫を遡ることはできないのである。系図はもちろんのこと、伝承のひとかけらも残っていないからだ。だから、この滝氏の出自を解明するには滝重太夫という人物が唯一の手がかりなのである。
ここで前節の地名の中で説明を省略しておいた上田原と海野とが、滝氏の出自についての重要な情報を提供してくれる。
◆上田原と海野―巫女の住む土地
戦国時代、上田原は真田昌幸が上田に城を築くさい、海野の住民を上田に移住させて作った町という。したがって、海野と上田原とは関わりがあると考えられる。両地間の距離もせいぜい15`。足らずである。
では、その海野とはどのようなところなのだろう。そして、望月氏とはいかなる関係を持つ地なのか。
この海野にほど近いところに祢津というところがある。現在は海野も祢津も同じ長野県東部町である。
ここは青森県の恐山とともに、日本でも有数の巫の居住地だった。多いときは50軒ほどの巫女の家があった。ある学者は「日本一の巫女村」とさえ表現している。
そして、以下は長野県東部町で長らく教育長を勤められた長岡克衛さんが、昭和33年に発表された論文によっている。
祢津の巫女の起源は古く、平安時代にまで遡るという。もっとも耶馬台国女王の卑弥呼や倭 姫 命、天の岩戸の前で
踊った天 鈿 命などは巫女だったといわれているから、巫女の歴史はさらに古く神代にまで求められる。
祢津の巫女たちは「ノノー」と呼ばれていた。人に呼びかけるときの言藁「喃、喃」から出ているという。私はこれを知ったとき、みやびな古語が残っていることに驚いたものである。以下、私は長岡さんにならって祢津の巫女といわずに「ノノー」と呼ぶことにする。
なお、「ノノー」の語は今はほとんど忘れ去られたが、かつて幼児語の「ノンノ」「ノノサマ」に残っていた。神仏や日月など、尊ぶべきものを呼んだ言葉である。現在は「お月さまいくつ、十三七つ、まだ年ゃ、若い」という童謡は、私がまだ子供の頃は「ノンノさまいく」で始まった。
地方によっては、「ノノー」の語は曾祖父母、祖父母、それに父などをも意味したという。父が尊敬の対象としてこのように呼ばれていたのだから、現代では「ノノー」は死語になって当然である。
ところで、彼女らは神と人との中間にあって、媒霊的存在であった。梓弓を鳴らし、恍惚状態のなかで神降ろしをして神託を伝える。いわゆる「口寄せ」である。彼女らの口寄せは戦国時代から江戸時代の庶民の精神的な領域に大きな比重を占めていた。
庶民ばかりではない。当時は武将もこの巫女を信仰し、あるいは利用していた。戦争に突入する前、ノノーの口を借りて神から勝利の予言を得る。それが戦争に駆り出される人々の死の恐怖を和らげ、あわせて勝利の確信を抱かせた。
また、社会生活の面でも、人々の意見が対立し収拾が困難なとき、ノノーの伝える神の言葉により将来の行動が明示されることもあった。ノノーは人心を収攬する手段でもあったわけだ。
そればかりか、ノノーはまじないや祈祷などもおこなった。彼女らの活動は医療技術にまで及んでいたのである。大げさにいえば、彼女らは予言者でもあり医者でもあった。
後世のノノーは歩き巫女として、西は近畿、東は関八州から東北、北陸にまで巡業し、その足跡を残している。行く先々で歓迎を受け、尊敬の眼差しで迎えられたらしい。ノノーが故郷の祢津に送った手紙によると、彼女らの巡業地として駿河の藤枝や金谷、遠くは奥州伊達郡とある。
ノノーは彼女らを監督する立場にある宰領に伴われ各地を歩いた。宰領に与えられた手形一枚で関所を通ることができたというから、比較的自由な通行が可能だったらしい。なお、宰領は士分の待遇を受けていた。
行方不明になった息子の捜索を、その親たちが彼女らに依頼したこともあった。今もそのような依頼の文書が残っている。ノノーの広範囲な移動に着目した親たちの、子供を捜す藁をもつかみたい心情が酌み取れる。
4月に故郷を出発したノノーは、11月末に帰郷する。彼女らが持ち帰った金銭が村を潤した。なかには千両箱を背負って帰る者すらあったという。
海野に近い祢津は、このように古くから巫女たちの住む土地であった。