第四の謎は竜爪山とその二つの峰の名称である。高いほうが薬師岳(1051メートル)、低いほうが文殊岳(1041メートル)である。
薬師岳の「薬師」は薬師如来の「薬師」であって、文殊岳の「文殊」は文殊菩薩の「文殊」であろう。しかし、これがおかしいのだ。
まず薬師如来であるが、この如来の左右に立つ脇侍は、奈良薬師寺の薬師三尊のように日光菩薩と月光菩薩である。あるいは、新薬師寺のように薬師如来の十二の本願を守護する十二神將が、眷族としてこの如来を囲むのがふつうである。薬師如来に文殊菩薩は配されない。
文殊菩薩はどうか。この菩薩は獅子に乗っていて、もう一方の普賢菩薩(象に乗っている)とともに釈迦如来の脇侍を勤める菩薩である。薬師如来とは結びつかないのである。
このようなことは少し仏教を学んだ者なら、だれでも知っていることであろう。
だから、両岳の命名者が間違えたとは思えない。薬師・文殊と名づけるべき必然があったのだろう。それが何なのかを我々がわからないだけなのである。
2つの峰の一方に薬師岳と名付けたなら、なぜ他方の峰には阿弥陀如来や大日如来の名を借りて、阿弥陀岳とか大日岳と命名しなかったのか。あるいは、一方を薬師岳とするなら他方を日光岳や月光岳するとかの命名の方法もあったろう。また、文殊岳とするなら、他は普賢岳としてもよかったのである。
低いほうを文殊岳としたいのなら、高いほうは釈迦岳としてもよい。それをなぜ薬師岳と文殊岳にしたのだろう。
この組み合わせがおかしいことは早くから先人たちも気がついていた。
庵原郡誌は高田宣和の説として次の2つの説を紹介している。
なお、高田宣和は明治8年に神仏分離令以後、竜爪権現改め穂積神社の神官となった国学者であり、平田流の神学者でもあった。
「薬師は『くずし』の転訛であり、したがって一峰に文殊の名を附けるようになったのだろう」。
文意が明らかでないが、これに対して郡誌は「その説やや穿鑿に堕つ」、すなわち「少しうがち過ぎである」と評している。しかし、高田宣和も郡誌も、文殊岳に関する説明はなにもしていない。
「兄
奇霊ヶ嶽、弟
奇霊ヶ嶽と称せばよいのではないか。二つの峰は標高がほとんど同じだから、兄弟の文字がよさそう
である。そしてこの『兄奇霊』が『薬師』となった」。
また文殊ヶ嶽については「1に文字ヶ嶽というから、これがあるいは旧称なのだろう」。
この説には庵原郡誌は何も付け加えていない。
兄奇霊、弟奇霊という語を思いつくのは、いかにも神学者らしいが、「弟奇霊ヶ嶽」では「文殊ヶ嶽」が説明できないので、文殊ヶ嶽には「文字ヶ嶽」という名を別に持ち込んでいる。だが、これでは論理が一貫しない。
そして郡誌それ自身は、両峰相対するから薬師と文殊になぞらえて呼んだものか、というに過ぎない。なぜ2つの峰が薬師と文殊になったかという説明を省略してしまっている。
そのほかの地誌や村誌も、この高田宣和の説を引用しているに過ぎない。
このように、薬師岳と文殊岳の名の由来は未解決であり、謎のまま今日に至っている。
竜爪山の名の由来は
次に竜爪山である。これについても、まず薬師岳と文殊岳と同じように、これまでの見解について見ることにする。
竜爪山という名称については、従来5つの解釈がある。これを列挙する。
雨をもたらす峰として、時雨嶽・時雨峰・慈雨峰・微雨峰(「ジウタケ」とか「ジウホウ」、「ビウホウ」と読むのだ
ろう)が、時雨匝山となり、これが「リュウソウザン」となった。
漢和辞典を参照すると、「匝」には「めぐる、あまねし、そろい」などの意味がある。「時雨匝」とはどういう意味になるのだろう。「時雨あまねし」とでもなるのだろうか。
しかし、「しぐれ」を意味するから「時雨」と漢字を書き、さらにこれを「ジウ」と音で読ませ、かつ使用例の少ない漢字の「匝」という字を持ち込むという二重、三重の操作を経なければ、竜爪山の名は解けないのだろうか。これは、やはり学者の説であり、一般の人々の感覚からはほど遠いといわなければならない。
それに発音も問題である。「ジウ」が「リュウ」と音変化を起こすとは、到底考えられないのである。このことは「微雨峰」にもいえることであって、「ビウ」が「リュウ」と変化することなどありうるのだろうか。
なお、静岡県史も「別名を時雨峰といい」といっている。また、穂積神社の前に立てられた静岡市観光課と清水市観光事業課(このあたりを東海自然歩道が通っているが、静岡市と清水市の両市域にまたがっている)のそれぞれの案内板にも、やはり「時雨峰」と記されている。
薬師岳と文殊岳があるから、瘤が2つある山、すなわち「
瘤 双 山となった。あるいは、瘤が3つあることから
「
瘤 三 山」となった。
私には瘤が3つあるようには見えないが、静岡市の唐瀬街道や、遠藤新田からの写真を見ると、3つ峰の感じに近い、という。このことは静岡県立城北高校の山岳部「ピオレの会」が竜爪山の研究を行い、その成果を昭和59年と60年の学校祭参加作品としてまとめた「竜爪山研究」と「リポート竜爪山」という小冊子によって知ったことである。なお、この本を書くにあたり、私は2つのレボートをよく利用させていただいた。
また、大正11年に再版された静岡県史蹟名勝誌は、はっきりと三峰に分かれていると述べている。
発音としては、たしかに「竜爪山」と「瘤双山」「瘤三山」は共通する。しかし、私には瘤双山や瘤三山という名が、山の名としてはあまりに即物的であり過ぎ、命名の思想がまったく感じられないのである。またロマンにも欠けるのだ。
瘤が2つあるなら、たとえば「二子山」とか「双子岳」などという美しい名が全国にある。北海道の阿寒岳には雄阿寒、雌阿寒の名がある。
3つの瘤でも、大、中、小の文字を頭に乗せて命名されている山は全国にあるはずだ。穂高岳は北、奥、前、西という語をそれぞれ頭につけている。なぜ、このような名が考案されなかったのだろう。だから、「瘤双山」も「瘤三山」も私には納得できない。
なお、「竜爪山」は「リュウゾウ」山と濁って呼ばれたこともあったのだろうか、大日本地名辞書や静岡県史蹟名勝誌は、
山神の
竜 蔵権現を祭っていたから「竜爪山」といわれたと書いている。
竜が爪を落とした山だから、竜爪山となったとする説もある。そして、その爪が大切に保管されているという。
この説は逆であって、竜爪山と命名されるようになってから、竜の爪が落ちたという伝説が作られたものと解さなければなるまい。したがって、この説も竜爪山の名の由来を説明してはいない。
竜灯山(船舶の航海の安全のために明かりを灯した山)、すなわち「リュウトウザン」であるとする説。
これも私は採らないが、4つの説のなかではそれなりに説得力のある説ではある。
たしかに、竜爪山の特徴のある形は、駿河湾を航行する船には格好の目印になったであろう。ただ、火を灯したかどうかは明かでない。
私がなぜこの説に若干の賛意を云すかは、後に述べることにしよう。
最後に中国に竜爪山という名称の山がある。竜爪山はこれを採用したのではないかとする説。
中国から山の名のみが単独で輸入されることはありえない。もし、竜爪山が中国名だとすれば、それにともない竜爪権現・穂積神社にも中国の宗教や思想の影響が残されていなければならない。しかし、私の見るかぎりこの神社に中国の影響はとくに認められない。だから、中国名が輸入されたというのも納得できる説ではない。
以上、これまでいわれてきた竜爪山の名称の由来についてひととおり検討したが、どれも説得力に欠けている。
竜爪山の名称も薬師岳・文殊岳と同じく、いまだ決着を見ていないのである。