は じ め に
 ここに一巻の神社縁起がある。
 躍るような筆使いで墨書されたこの文書は、決して達筆とはいえないし、誤字や当て字も多いが、それがかえって乾いた活字で記されていないだけに、内容のおどろおどろしさも加わり、独特の説得力をもって読む者の心に迫ってくる。
 縁起は1行が約25字で70行ほどだから、それほど長いものではない。冒頭に「龍爪山開白ゑんぎ」と標題がある。「龍爪
カイビャク
開 闢縁起」のことである。
 龍爪山はいうまでもなく、静岡市の北東にそびえる山で、薬師岳と文殊岳の二峰からなる。お椀を二つ伏せたような美しい形をしている、
 しかし、うかつなことにこの縁起を読むまで、龍爪山について私が知っていたのはその名のみであり、山容ばかりか所在すら
タカヤマ
定かでなかった、今思えば、東隣りの高 山や西のオオベラと取り違えていたのだった。
 ましてや、ここに穂積神社という神社が鎮座し、日清日露戦争以来、弾丸除けの神として軍人や兵士をはじめ多くの参詣者で賑わったこと、神仏分離以前の江戸時代には龍爪権現と呼ばれ、鉄砲の神として遠州、駿州、伊豆ばかりか、甲斐や伊勢にいたる広い範囲にわたって篤い信仰を集めていたこと、そして心病はじめいろいろな病に霊験あらたかな神であったことなど知る由もなかったのである。
 ところが、この縁起を読みはじめてからというもの、私は毎日のように清水市の私の家から北の空を仰ぎ、龍爪山を眺めるようになった。
 それとともに、龍爪権現・穂積神社の謎を解こうとする猛烈な衝動が、私の体の奥底から噴き上げてきたのである。
 というのも、静岡県史や江戸時代の駿河国についての地誌、あるいは大正の初めに刊行された村誌や郡誌などを読み進むうちに、龍爪権現も穂積神社も多くの謎を秘めていることを知ったからである。
 もちろん、その謎には江戸時代から郷土の先人たちも気づいていた。たとえば、文久元年(1861)の駿河志料は「祭神つまびらかならず」といい、その50年ほど前の駿河国新風土記も「この社の事、古くは何といいし社にや」と記している。神社にとってもっとも大切なその名の意味と祭神とが、19世紀初頭にはすでにわからなくなっていたのである。そればかりか、開祖とされる権兵衛の人物像や出身地も明らかでなく、また龍爪山、薬師岳、文殊岳といった山の名もまだ十分に納得できる説明がなされていない。
 現在でも多くの郷土史家が関心を寄せて、これらの謎の解明を試みている。
 とくに龍爪山の南麓、静岡市平山にお住まいの曹洞宗三枝庵住職の奥田賢山師は、永年にわたり龍爪権現・穂積神社の研究をライフワークにされてきた。奥田師が昭和60年に書かれた「龍爪山 ―神仏習合の歴史についての一考察― 」はその代表作である。
 また、静岡市に在住され平成元年に亡くなられた望月光春さんがお書きになった旧制静岡中学校5年生のときの論文「龍爪について」は、現在では入手がむずかしい資料や伝説が豊富に掲載されている。この論文は、当時の静中郷土史研究会の会誌に4回にわたり連載されたものである。
 しかし、お二人はじめ多くの人々の著書や論文を読むかぎり、謎はほとんど謎のまま今日まで残されているといってよい。
 龍爪権現も穂積の神も、みずからがまします駿河の国の人々にさえ、その秘密の扉が開かれることを拒み続けているのである。
 だから、静岡県の生まれでもなければ郷土史の専門家でもない私が、この謎に挑戦することは大胆であり不遜なのである。神の意志に逆らうことにもなりかねないのである。
 だが、一つの謎を解き明かしたかと思うと、その奥にさらに大きな謎が私の浅知恵をあざ笑うかのように立ちはだかってくるのである。私は次第に謎の闇の奥深くに引き込まわていった。
 自分がおのれの意志ではあらがい得ない巨大な力に動かされているようにさえ感じられた、そして熱に浮かされたようにさらなる謎を解く作業に没頭した。
 幸い、龍爪権現の神官であった望月氏と滝氏の子孫の方々とお近づきになり、そのお宅に伝えられている数多くの興味深い話をうかがった。
 また、穂積神社の責任役員をながくお勤めの古本萬吉さんにもお会いできた。
 古本さんのお宅はお祖父さんの代から、ことによるともっと以前から、氏子総代として龍爪権現に深くかかわってこられた。だから、古本さんは龍爪権現・穂積神社の生き字引のような方である。
 この神に関心を寄せる人々の多くが、赤い龍爪神橋のたもとにある古本さん宅を訪れている。その古本さんはエピソードや伝承の数々を繰り返し話して下さった。
 そして私はこれらの方々が秘蔵されている二本の望月氏の系図をはじめ、滝氏一族の滝長門正が書き残した「古今萬記録」「龍爪山御本社造営之覚帳」などの文書を見ることができた。
 長門正は幕末から明治初期にかけて龍爪権現の神官を勤めた人物だが、まことに筆まめで「古今萬記録」には自家の歴史をはじめ、龍爪権現の周辺に起こったさまざまな事件を克明に記しているし、「龍爪山御本社造営之覚帳」はその名のとおり、龍爪権現の本社の造営の時期やその規模、それにかかわった社人(神官をいう)や地元の村役人、大工、木挽、左官などの名をことこまかに記録している。すべて私には第一級の史料だった。
 そして、これらの文書を分析して解き明かした事実が、私自身が夢想だにしなかった方向に展開するのを見るとき、私は驚きと興奮で我を忘れていた。
 古くから日本人はさまざまな神を祀ってその神の意志をうかがい、それに忠実に従って生活した。日本人が生きることによって抱く喜怒哀楽も願望も怨念も、すべて神に凝縮していた。日本人の暮らしは、神なくしてはありえなかった。村の鎮守の神さまは村人たちの心を結合する要の役割を果たしていた。
 これまで古事記や日本書紀はじめ神道にかかわるさまざまな本を読んでいながら、私にはこれらが理解できていなかった。読み方が浅かったのである。龍爪権現・穂積神社の謎を解くことによってそのことに初めて気付かされたのだった。
 この本の主人公の権兵衛は、龍爪権現の神罰によって3年のあいだ神がかりになった。私も「開白ゑんぎ」を読みはじめた平成10年10月からほぼ半年の間、穂積の神が私に乗り移っていたのではないかとさえ思える。私の脳裏から片時もこの神は離れようとしなかった。
 本を書く合間に、私は何度も龍爪山上の穂積神社に足を運んだ。初めて訪れた昨年の11月末、穂積神社は森閑とした杉木立の中にあって木漏れ日を浴び、鳥居と本社が研ぎ澄まされた山の冷気に包まれて静かに立っていた。
 穂積の神は私の謎解きの成果を好みし給い、この本をご嘉納下さるだろうか。
   平成11年9月