あ と が き
 本稿を書くに当っての契機や動機は、己に本文中に書いたところである。ただ動機について再言するならば、やはり現代人の歴史に対する関心の薄さというか、認識の不足といったものを、強く感ずるわけである。一般に現代の世相は、そのようなものと思われるが、目前の功利的な面にばかり捉われて、歴史的なものに触れようとはしない。
 戦後の龍爪山の荒廃は、このような入々の心の、歴史性の欠如によるものとも、云うことが出来よう。尤も普通には、神への信仰心の喪失の結果と云われようが、歴史的な過去の事物を大切するという事は、単なる過去への懐古ではない。これからの文化を育てるための大切な仕事でもある。それは現代に生きる我々の、義務であるとさえ思うのである。
 さて昔から龍爪山といわれて来たが、龍爪山についてまとまって書かれたものは、これといってない。 正式な歴史や、沿革誌のようなものは勿論、云い伝えや、伝説といった類いのものも、断片的に伝わっているに過ぎない。それらは大正2年編纂の西奈村誌に、一応載せられているが、今1つあきたりないのである。これらの研究や集大成は、この地域の郷土史の研究と共に、今後にまつ所、大であると云わねばならない。この小稿が、そのことへの端緒の1つにでもなれば、幸いこれに過ぎるものはないと、ひそかに思う次第である。
 以上のようなことから書き始めたが、2つの事を書く結果となった。それは何かといえば、1つは神仏の習合であり、も1つは、汎龍爪山ともいうべき、書く対象の広がりであった。何故そのようになったのか、少し触れてみたいと思う。
 先ず神仏の習合であるが、神山の歴史を書くのに仏ばかり出て来て、或いは一部の人には、期待外れの感がするかも知れないが、それは神仏の観念が今と異って居り、神仏の習合の実態を除いては、神の歴史も書き難いという事である。その事は、明治元年に太政官布告として、神仏分離令が出された事でも明白で、若し神社に、神社独自の歴史があるならば、この神仏分離令は不要の理である。
 現在でも地方の氏神や鎮守社などには、その御神体として、仏や菩薩が祀られている例も報告されている。明治の神仏分離の時に払拭されずに、今日まで残っていたのである。
 ここで昨年(昭和59年)、新聞等に報道された、次の話を掲げたい。
 伊豆の修善寺町の修禅寺に於いて、大日如来の解体修理の折、その胎内から二束の髪の毛が出て来た。一体誰のものかということで議論になったが、吾妻鏡に、北条政子の髪の毛で、種字曼荼羅を綴ったという記録があり、その曼荼羅が、熱海伊豆山の、伊豆山神社に秘蔵されていることもつきとめた。そして使用されている毛髪と、この毛髪とを科学的に分析し比較してみると、両者は極めて類似して居り、恐らく同一人のものであろうという結論になった。
 以上の話であるが、これも神仏習合の実態なしには理解出来ない。神社に密教の曼茶羅が秘蔵されていたなどとは、思いも寄らない事である。因みに同社は、その昔伊豆山権現と呼ばれていた。
 次に汎龍爪山という事であるが、記事が龍爪山を乗りこえて広がって行ったのである。
 一体に龍爪山信仰は、点の信仰ではなかった。龍爪山を中心に、或る半径の円を描き、その円の中での信仰であった。汎龍爪山の論にならざるを得なかったのである。その円は始めは南方西方に濃く、東に北に疎くなって行く。即ち南、瀬名谷(長尾、平山方面)からの信仰の道と、西、牛妻方面からの信仰の道である。特に牛妻方面からの信仰は濃密であった思われる。安倍川に沿う牛妻、松野、郷島あたりは、古い仏の里であったといわれている。そこからの道は行翁山、更には道白山、その先龍爪山へ続いている。この道は人(行者)が通いなれ、歩きなれた道であった。道白禅師もこの道から入って来た。
 又南方からの道は、北沼上に石経あり、則沢入口に堂の坂あり、更には昭和57年、則沢奥の庚申山から出土した菊花双雀鏡など、龍爪への修験の道の行場、或いは中間的聖地─中継点─の如きものと考えられる。
 以上は戦国時代末期、武田占拠以前の事である。それ以後は、北から東からの影響が強くなった。
 人の行き来も、徳川時代を通じて、ずっと盛んになった。兎に角武田軍の占拠からその敗退にかけて、龍爪山の様相は一変し、信仰の形態も、全く変って行った。現在までの龍爪山の基は、実にこの時に作られたものである。
 以上のような円の中での信仰という事と、時代による信仰形態の変化─戦国末期の戦乱による影響などが絡み合って、汎龍爪山的記事となって行ったのである。
 ここで徳川期以後の龍爪山について一言するならば、普通龍爪山の歴史というのは、この時期のことをさして言うものであろう。即ち樽の権兵衛を始祖と仰いで、今日に至る歴史である。これはTの龍爪山開創のことで触れたが、それ以上のことは、歴代祠官のこと、年中行事を綴ることになる。それはそれで意義ある事であろうが、本稿に於いては割愛したいと思う。因みにこの間は約四百年で、前の三百年が龍爪権現の時代、明治から現在までの約百年が、穂積神社の時代である。
 龍爪山の歴史を書こうと思い立った頃は、樽の権兵衛から明治維新まで、三百年の沿革史を書くつもりでいたが、いろいろ調べ
ありよう
ていくうちに、龍爪山の歴史のロマンは、むしろそれ以前にあるように思えて来た。そしてこの現在までの四百年の有 様を決めた要因も、またそれ以前にあったのである。
 それではここで、小稿の各部について少し説明してみたい。先ずT「龍爪山開創のこと」では、龍爪開山の事を中心に。U「龍爪権現について」では、神仏習合のこととその遺跡等について書いたのである。V「薬師岳、文珠岳」に於いては、龍爪山の主峰である二峰の紹介と、山頂のそれぞれの石仏について。特に文珠山頂の文殊石龕は、小島藩士が重役も含めて関与し、地元民多数の協力のもとに建立されたものである。由緒ある文化遺跡である。しかし惜しむらくは、この文殊石仏は数年前、心ない人のために持ち去られてしまい、現在は存在しない。
 「龍爪山雑記」は、先きの「T」、「U」を補足する意味もあって、書いたのである。1の「神仏習合の背景」は、習合を論ずる上での、筆者の基礎となる考え方をまとめたもの。これはある程度、自由奔放に書かせて貰った。2の「伝説と史話」に於いては、武田軍占拠という事に遠い的を置いて、これをとりまく大きな円を描いてみた。1つの歴史への傍証としたかったのであるが、あまり目的は達しなかったかも知れない。
 道白禅師のことについては、始めは予定されていなかったが、龍爪修験第一の行場として、やはり安音山を除くわけにはいかなかった。尚この高徳の曹洞宗の禅僧の面影を、追ってみたかった。
 以上のような事であるが、今回はこの辺で一先ず区切りをつけて、後は後日に期することにした。やりかけの仕事はずっと続いているわけであるが、原稿の方は、一応区切りをつける事にしたのである。
 ただ文珠山頂の石龕銘の解読は、未完成のままで、自分でも気になるところであるが、風化のひどい個所もあり、又高所にあるということで、思うにまかせないのである。これは気長にやる以外にはないと思っている。
 さて書かれた原稿であるが、文が前後になったり、同じものが二ケ所に出たりして、吾ながら体裁の不備を思うわけであるが、全体的に時間に追われた関係もあって、時間を追って書いたものを、そのまま出した結果である。所謂時間差による記事を、1つに纏める余裕がなかったといえば、そのようなことであった。
 龍爪山は昔からこの駿河の天に聳えて、秀麗な山容を誇るばかりでなく、幾多の過去の歴史や文化を秘めた山でもある。その龍爪山を更に大切にし、更に身近なものにする為にも、各方面の大勢の人々の協力が、是非必要であると思う。それは毎日龍爪山を仰いで暮らしている人の、義務のごときものと、私は考える次第である。
 最後にこの小稿であるが、浅学非才のなせる業で、さぞかし思い違いや、独善的な記事が多いのではなかろうかと、密かに恐れている次第である。大方の先学、諸先輩方の、厳しい御批判、御叱正を願って止まない次第である。