は じ め に
 龍爪山の歴史を書こうと思ったが、わからない事ばかりで、どのようにして書き出したらいいか、さっぱり見当がつかなかった。たしかに龍爪山は太古からの民間信仰の霊山であるが、それがいつの頃はどうであり、又どの時代にはこうであったというようなことは、全くわかっていないのである。しかし他の日本の霊山と同じように、それが代表的、或いは地方的という差こそあれ、奈良、平安の昔から、神仏習合の山、更には修験の山となって、室町時代から戦国時代へと続いて来た事は、想像するに難くはない。その事を示す遺跡というか、事跡といったものを、いくつかあげる事が出来るのである。
 この前の章で、古代信仰に先行する形の、大己貴命への信仰を書いたが、これは先史以前の事として暫く措くとしても、推古天皇28年(620)龍爪山頂へ、大般若600巻が、天より降ったという伝説や、貞観17年(875)、行翁山に住んだ行翁菩薩が、「時節を待って此の龍爪山を開き、大伽藍を建立し、仏法流布の大道場となし、衆生を済度せん」と、発願した話など、古伝説とはいえ、龍爪山信仰の古さを思わせる。更には山頂からの一字一石経の出土など、その歴史性を証明するものという事が出来よう。この経塚が作られた年代なども、室町期以前というべきで、決して以後という事はないと思われる。総じて龍爪山を取りまいて、そのような遺跡や、霊地が認められるのである。以上の事は己に書いた事なので、ここでは重複をさけて、ふれないことにする。
 さて中世になると、修験道が栄え、龍爪山を取り巻く行場がいくつかあって、そこに修験者が籠り、或いは八宗兼学の僧なども加わって、木喰の行をし、秘法を修し、或いは龍爪回峰行のようなものも、行なわれたのではなかろうか。これは想像も加わってはいるが、そのような形跡もなくはないのである。
 龍爪回峰行などと唐突な事を言った序でに、更に想像を逞しくすれば、東海道自然歩道は、一つの修験の道であった。大和の吉野から和歌山県の熊野に至る、所謂「大峰奥駈け」といわれる有名な修験の道があるが、東海道自然歩道もまた、それに近いものであった。何故なら自然歩道の地図を広げてみるならば、龍爪山から遠州秋葉山までをとってみても、それはずっと霊山をつなぐ道である。例えば龍爪山を起点に、黒俣の東、大峰山、宇嶺滝の高根山、川根町の西、大日山、北へ行って春野山、更には新宮神社から秋葉神社と、その間も霊地の連続である。霊山から霊山へと、最端の距離で結ばれている。一つの目的なしには、この道は決して生れなかったと思う。
 この修験の道を、戦国の末期、武田が軍道として利用した。そういえば山本勘助は最近実在説が強く、しかも修験者であったと論証される
行 翁 山
 話が大分飛躍したが、話をもとへ戻し、龍爪修験二つの行場、牛妻の行翁山と、則沢奥の道白山とをとりあげて、龍爪山の歴史を側面から考えてみたい。これ等の山は独立して存在していたのではなく、龍爪修験の一環として成り立っていた。昔の伝説も、古老の話も、そのように伝えている。
 行翁菩薩像
 静岡市牛妻望月みさ家蔵
行翁菩薩像
 先ず行翁山であるが、貞観17年にこの山を開いたという行翁については、己に「龍爪権現について」の「古伝説」の項で書いたとおりであるが、この行者は半ば伝説的であり、神話的である。元亨釈書の行叡居士に擬せられたりして、若し同一人物であれば、己に人間ではなく神人である。京都東山の音羽山清水寺を建立する因縁に二百年を座し、又此の行翁山にて、「千手千眼の呪」を説えて百有余年、信者槇部某に名号を書き与え、必ず立ち戻るからといって、東国へ飛行し去ったといわれている。
 行翁山への参拝は、牛妻(森谷沢)から登ること十八町、「左行圓山」と刻まれた、地蔵石仏に導かれて行く。行翁山はまた行圓山(行の円成する山)とも、呼ばれていたのであろう。この山のたたずまいは、人里から半里の行程で、己に深山幽谷の感が深い。誠に嶮阻な岩山である。その岩山の根に「行翁山」の碑が立っている。その碑の裏面には「南無阿弥陀仏」と、六字の名号が刻まれており、更に上って頂上の平には、所謂行翁堂がある。堂の前方左下手に洞穴があり、行者はここで行じたものであろうか。私は更に、前方のそそり立つ絶壁のいずこかにも、やはり洞穴があるのではないかと思う。いずれにせよこの山での行が、なまやさしいものではない事がわかるのである。
 駿河国新風土記に「今此村の民行翁の書したと云一軸あり、中に弥陀の名号なり、専修念仏の起りしは法然に始まれるを以考れば、行翁も古代のことにあらずして、六百年以来の人なるべし、又其仏号は後人の筆なるや未審、」と記されている。この軸は現在、牛妻、平の望月みさ刀自宅に現存している。古色蒼然として拡げるに耐えないものである。
 たしかに行翁山には浄土系の遺物が多い。しかし弥陀信仰は、平安の初期から己にあり、必ずしも六百年来の事とすることは出来ないと思う。浄土の信仰もまた、神仏習合に早くからかかわったのである。但し、行翁山厳下の例の碑は、弘化年中のもので、己に幕末に近い。
 思うにこの行翁の霊跡は、麓の各部落及び槇部家等の管下にあると思われるが、かつては浄土系の人々によって、管理されていた事もあるのであろう。
 この行場はその後も戦国の世あたりまで、行者が絶えず行じていたものと思われる。又駿国雑誌に次の如く伝えている。「安永年中、武州東叡山(上野寛永寺)の行丹と云へる僧、此窟に住して行けるを、人いたはりて小庵を作りて住めけるに、其後は行衛しらず。今猶行丹が廚具、其儘に残りてあり。云々
道 白 山
 次は道白平の遺跡について述べる事にしよう。
 安音山道白平は、行翁山から更に登ること十八町、尾根を越えて山の中腹をずっと回って、やはり西向きの山腹にある。同じ龍爪山の中腹といっても、牛妻側から登るよりも、南麓の則沢から登る方が遥かに近い。というより、現在はそこからしか登れない。昔の道は己にあとを没してしまっている。
 この行場も厳しい行場である事がわかる。恐らく木喰の為であろう、千古の銀杏が欝蒼と枝を拡げ、その畳2畳もあろうかと思われる幹の後に、己に朽ちた巨大な株跡がある。現在の大木は、その子か孫である事が知れる。
 現在平には一宇の堂があり、その左手には道白禅師の石像等が安置されている。近く胎内潜の泉が、凅れる事なく湧いている。
道白禅師石祠
道白禅師石祠
 更にざら場を一丁程登ると奥の院がある。この奥の院は峨々たる巨石が重なって、その作り出した洞穴に、宝筮印塔、五輪塔などが祀られている。恐らく行者はこの洞穴で、木喰をしながら、禅定していたものであろう。そこにある五輪塔は、峰入り行者の満願を記念して立てられたものであろうか。誠に行翁山といいこの道白山といい、身の毛のよだつ思いの行場である。
 道白伝説によれば、道白和尚はここに七堂一宇を建て、仏道三昧に暮し、常に酒を好み草花を愛し、寄行に富んだ和尚であったと記されている。事実この道白和尚程伝説に富んだ和尚は少ない。即ち一頭の不思議な黒牛を飼っていて、この黒牛は人語を解し、駿府へ出て和尚の買物などをした。実はこの牛はもとは祖益という和尚の弟子であったが、今川館の奥女中であった、田野という所の小萩という娘に恋をして、畜生道に堕ちて死んでしまった。そしてこの黒牛に生れ変ったのだといわれる。この牛は昼間は和尚の雑役をして仕え、夜は山を越えて小萩の家の軒下に眠ったといわれている。哀れな物語であるが、この牛もやがて和尚の法力によって、無事成仏することが出来たと伝えられている。この事があってから、今迄の田野という所の地名を改めて、牛妻村と呼ぶようになった。
 更にはこの和尚は、山神や天狗等を使役していたといわれている。この和尚に客人があると、どこからともなく山童や山姥が現れ、懇に客に饗応し、客人が去ると、それ等の姿も、かき消すように無くなったと伝えている。
 道白和尚の伝説は、大体以上の如きものであるが、私はこの和尚の実像を追ってみたいと思う。
しゅざん
 道白笑山宗ァ大和尚は野州の人といわれている。野州といえば上野・下野ありで、現在の群馬県、栃木県にあたる。相州小田原の大雄山において剃髪し、武州青梅の天寧寺に掛錫して、宗源和尚について参究允可を受けた。その後その室を出て、上州の田舎に草庵を結び、座禅観法して尚修業にはげんでいたのである。しかし当時同地方は兵乱あいつぎ、遂に難を逃れて、駿河の国へ巡錫して来た。出生からこの頃までの年代については、今の所わかってはいない。そして焼津の八楠に、池ロ山林泉寺を建立し、その開祖となり、遂には龍爪山麓平山の蓮華峰(則沢安音山、道白平)に於いて、修業にいそしんだのである。この修業中に、清水港の船奉行、土屋豊前守の厚い帰依を受け、その招聘によって、今泉に補陀山楞厳院を建立し、その開山となったのである。土屋豊前守の招聘を受けたのは天文23年、楞厳院を建立したのは、その翌年弘治元年であった。尚、八楠の林泉寺を建てた年代はわかっていないが、天文の始め頃であろうといわれている。
 さて、ここで当時の甲駿の情勢を眺めてみると、永禄10年(1567)甲駿相の三国同盟を精算した武田信玄は、いよいよ駿河
侵攻を決意し、翌11年の12月13日、大軍を率いて南下し、薩埵山八幡平に於いて、今川軍と対峙したのである。
 一方今川方は氏真を総大将として一万五千の軍兵で、興津清見寺に本陣を構えた。第一線の防衛軍七千の指揮は庵原安房守が取り、その最前線の八幡平を固めたのは、岡部忠兵衛と、小倉内蔵介であった。この最前線を固めた部将岡部忠兵衛こそ、実は後に土屋豊前守と呼ばれたその人である。
 この薩埵・八幡平の戦いは、しかし今川軍の惨敗に終った。今川方の主な諸将は、己に武田軍と内通して居り、戦わずして退いてしまったのである。後方が退いてしまったので、勇猛な最前線も、後ろから攻められてはと、退却を余儀なくされた。重臣の一人朝比奈元置も退却して来て、瀬名城へ入ろうとしたが、瀬名城は己に落城して居り、城主大膳正能泰は討死という事であった。(今川軍記残篇)。私はこの事は、戦線がまだ東方にあったにもかかわらず、己に瀬名城が落ちていたという事は、武田軍の一隊が、龍爪山を越えて南下して来たという、一つの証拠とみるのであるが、いかがなものであろうか。Tの「龍爪山開創のこと」で、樽峠から中河内40坂の武田の軍道については、己に触れたとおりである。
 さて退却した今川氏真は、本城駿府城へも入る事は出来ずに、長駆掛川城まで退いて行った。
 この八幡平で、文字通り最前線の指揮をとった岡部忠兵衛なる武将は、屈強な武人として、最前線の指揮をとるに、ふさわしい人物であったと思われる。
 岡部氏といえば、大織官藤原鎌足の流れを汲むといわれている。駿河国岡部郷に住みつき、代々国人部将として続いて来た家柄である。忠兵衛は今川水軍の中心的存在であった。この武入は今川家滅亡の後は、武田家に仕えて、武田水軍の創設に、力を尽したのである。
 たまたま武田家有数の家臣、土屋右衛門尉が戦死し、この右衛門尉に男子がなかったので、武田信玄はこの岡部忠兵衛をして土屋家を継がせたのである。その時から土屋豊前守貞綱と名のるようになった。この改名は元亀の初年頃と考えられるので、楞厳院建立当時は、まだ岡部忠兵衛であったのである。
 この豊前守は、天正3年5月21日、長篠の合戦に於いて、壮烈な戦死をとげている。豊前守にも子供がなかったので、金丸筑前守虎義の男、惣蔵昌恒をもって養子とした。この惣蔵は後に、右衛門尉昌恒と称したのである。この惣蔵がまた、忠兵衛に劣らぬ武人であった。天正10年3月11日、天目山に於いて武田勝頼打死の折、弓矢を射つくし、最後は刀を振って奮戦した。彼も又壮絶な戦死をとげたのである。時に27才の若さであった。
 この惣蔵、前もって妻子を部下に命じて逃がしてあった。その後の事を、駿国雑誌に見ることにしよう。

きょごうざん
 「昌恒戦死の後は、妻子庵原郡興津駅、巨韻山清見寺に隠る。母は剃髪して智光と号し、門前に在り。一日神祖当寺に入御、時に方丈幼童を引て委曲に言上す。時に天正16年9月也。神祖惣蔵が忠義を御感の余り、彼童を召出され、御家人に加へ給ふ。後民部少輔忠直と号す。云々。」

もうた
 この忠直慶長6年上総国望陀城の城主となり、二万石の大名に列した。
 この民部少輔忠直が、土屋家の菩提寺を、その地望陀郡久留里に建立した。先光山圓覚寺というのがそれである。祖父豊前守貞綱が建立した楞厳院の第三世、寒州文充和尚を、開山として招聘したのである。因みに「道白和尚の一代記は、この圓覚寺に在り」と、駿国雑誌は伝えている。現在圓覚寺所蔵のものは、一括して望陀城趾の、君津市郷土館に寄贈されていると云われてい
道白山石窟
道白山石窟
 話は前後するが、焼津八楠、林泉寺を開創した道白笑山は、平山の奥安音山に籠って修業に没頭した。平山の地名は後に、北沼上則沢となった。この安音山は、龍爪修験の厳しい道場であったのである。そこには密教系の修験者が何人か籠って居り、その中へ八宗兼学を志す曹洞宗の禅僧、道白笑山が加わったのである。当時はこのような風習は珍しい事ではなかった。道白和尚は、剃髪の地が道了尊であったりして、始めから修験に縁が深かった。今でも小田原道了尊に於いては、僧が白装束を着て、法螺貝を吹く。修験者の中にあっても、道徳明知な道白和尚は、一きは秀れていたのである。
 さて度々云うように、この安音山はすばらしい修業場であった。木喰のための銀杏その他の木は繁り、胎内潜の泉はこんこんと湧いて尽きなかった。さらに伝説によれば、「七堂一宇」があったといわれている。しかしこの「七堂一宇」というのはおかしい。何故なら堂と宇とは建物という同じ意味である。実は「七洞一宇」が正しいのである。「七つの洞窟と一つの堂宇」、これならば、道白平の状況にぴたりという事が出来る。それをいつの間にか書き誤まったのである。
 現在洞はうまり、浅くなって、奥の院に二穴あるばかりであるが、往時は尚いくつかあったのであろう。磊々たる巨石の間に、尚探せばいくつか見出せるかも知れない。胎内潜の泉なども、更に奥があるように思える。
 ここの修業僧道白と、今川の部将岡部忠兵衛とが、どのようにして知り合いになったのか、その理由はわかっていない。只忠兵衛は道白に私淑し、寺を建つならばこの人をおいてはないと、考えて居った事は事実であろう。或いは八楠の林泉寺の近くに、忠兵衛の知行地があって、そこで相識になったのであろうか。或いは今川館へ説教に出向いた道白に、帰依したものであろうか。
 私は次のようにも考えている。修験場としての道白山は、今川家中にもよく知られていた。勿論そこに何人かの行者が、絶えず修行していることも。これは静岡市発行の静岡市史年表にも、今川義元、氏真治下に於いて、山伏の管掌等に関する記事が何ケ所かあり、それによっても、想像することが出来る。
 青年時代に龍爪山へ登った岡部忠兵衛は、山中に於いて真剣な行に取り組んでいる、行者達に興味を感じ、特に道白和尚の人格に引かれたのであろう。或いはこの青年将校は、道白が巡錫して来た東国諸国の状況などを、興味深く聞いたのであろうか。そして時に安音山を訪問したのである。伝説に「道白酒を好み云々」とあるは、この若き部将と意気投合し、或いは談論風発であったかも知れない。
 今川の部将がいついつ訪れるという事が知れると、麓の村人達が、和尚の依頼によって、その接待に出たのではなかろうか。険阻な山道を、荷物を背に負い、風のように渉り歩く人々を見て、或いは山神とも、天狗とも、又は山姥とも見えたのであろう。村人達は、今も昔も親切であった。喜んで手伝って呉れたのである。「客人が去ると、いつとはなしに霧のように消えて行った」と、昔話は語っているが、持てなしが終り後片づけがすむと、村人達は再び荷物を背に、さっさと山を下って行った。
 古書にも、山の人達のことを、天狗、山神と呼んだと書かれている。序でに黒牛の事であるが、この道白平の修験者の群は、一頭の牛を飼っていた。それはいかに木喰とはいえ、日常の必要物資を、牛の背によって運んだのであろう。
 道白禅師の開山の寺が、何故補陀山楞厳院という寺名になったのであろうか。修験僧は行場に於いて、絶えず天災地変の難を逃れ、無病災息の安穏を願って、首楞厳経を読誦して居るといわれている。その為に特別の法要をも営むのである。今日禅門に於いても、楞厳会は取り行われている。安居(百日の修業)の無事を祈る為のものである。昔中国の南宋の補陀山で、夏中病僧が多く出たため、この法会を営んだのが始まりと云われている。
 土地の瘴癘を除き、身体の健固、諸縁の吉祥を願って、自らの本貫の地に仏国土を出現させ、菩提寺を建立したのである。それがとりもなおさず、補陀山楞厳院の寺名に外ならない。
 因みに道白禅師の生れは牛妻という説がある。先に述べた牛妻、平の望月みさ刀自家が、それであるとする所伝である。同家では位牌の中に、道白禅師の法名を、その師ともいわれる、「大阿闍梨法印堯湛堅周金剛」の法名と共に、祀っている。尚道白禅師を、安音山第四世とも伝えている。
 最後に、北沼上則沢所在の道白山遺跡であるが、同遺跡が今日あるは、同所、故松永千代作翁、同松永元彦氏二代の篤行に因る所が多い
武 田 軍 占 拠
 甲斐の山国から山間を伝かって、ぽっかりと駿河の国へ顔を出す事の出来るのは、龍爪山をおいて無い。富士川を下っても、或いは天龍川を下っても、ずっと情報の伝わりやすい、長い道である。この龍爪山は、甲斐から隠密のうちに、しかも容易にやってくる事の出来る、唯一の枢要なポイソトである。更に道は駿三の背後の山中を、隠れるように続いている。この道を武田信玄は、戦略の軍道として使用した
 西奈村誌によれば、「今川氏国方と称する奉幣使、3月17日稲川太夫を以て、籾俵十二俵、雑穀十二俵を献納す。天文9年迄。云々。」と記されている。この一文によって、武田占領以前の、龍爪山の賑いを知る事が出来るが、何故天文9年で、奉幣使は中止になったのか、疑問が残るのである。天文9年といえば先程の道白禅師も、道白山中で修業の真最中であった。国主今川義元の治下で、国運は隆々としていたと思われる。
 因みに、今川義元が桶狭間で打死したのは永禄三年であり、天文9年といえばそれより20年も前の事である。これを若し永禄9年とするならば、同10年に甲駿相の三国同盟が御破算になり、甲斐の駿河侵攻が進められている時なので、武田勢力の龍爪山進出は、充分考えられる所である。
 兎に角三国同盟を破棄し、駿河進攻を企てた武田氏は、着々その準備工作に入った。その手始めに、今川有力武将の懐柔である。富士の葛山氏、今川一門の瀬名氏、或いは侍大将の朝比奈氏といった人々と、内通したのである。その密使やエ作のルートは、この龍爪越えが使用されたのではなかろうか。
 しかし何故今川の重臣達が、たやすく武田と内通したかといえば、やはり義元没後の氏真に失望したからであろう。氏真の下での今川の滅亡を予想し、義元の怨敵である、織田信長に駿河を取られるよりは、少しでも血縁につながる武田氏に、駿河を与えた方がましであると考えた。甲陽軍艦にもそのような事が書かれている。
 武田はじりじりとその工作を続け、甲駿の境地方の山間部には、元来武田系の入が住んでいたが、はっきり武田へ臣従する村が増加して行った。中には安倍大蔵の如く、武田に反抗した人もいたが、大半は親武田であり、駿河進攻時の軍役─多く雑役─についたのである。
 私はそのような状態の中で、龍爪権現は武田信玄によって、山下へ下ろされたと見ている。それは久能寺が、永禄11年に山下へ下ろされたと同じ頃、下ろされたものであろう。その場所は比定することは出来ないが、やはり昔の修験の道筋、牛妻の地あたりであろうか。
 このようにして、龍爪山は武田軍ゲリラ戦略のべース基地といったものとなり、一般村人達の登山は禁止され、昔からの権現の祭りは、春先きの賑いは、全く跡をたってしまった。
 天正10年武田勝頼が天目山に於いて打死して、この地のさしもの戦乱も、一応終止符が打たれたが、尚龍爪山に人は寄りつかなかった。「此山と申は天狗のすみかなれば、夥しくあれ候上、壱里四方へ入来る者之無く候」と、龍爪山開初の事として、古文書に書かれている。
 武田の落人達がこの山に隠れ住んで、村人達を寄せつけなかったのである。しかしこの落人達が、残っている小祠を守り、やがて龍爪権現を復興して行った。
 しかし室町時代から、戦国時代へかけて栄えた修験道は、再び戻っては来なかった。それは久能寺の再建を、徳川家康に請願して許されなかったように、龍爪山修験道も許可されなかったのである。
 理由は、修験道が栄えることによって、戦国の浪人達の姶好のかくれ場となる事を嫌ったのであろう。
 然し間もなく、龍爪山は賑いを取り戻した。慶長8年(1603)徳川家康が江戸に幕府を開き、元和元年(1615)大坂夏の陣に於いて、豊臣氏が滅亡すると、戦乱の時代は去って行った。龍爪山に潜んでいた落人達も、身の安全を確認し、麓の人々も、彼等の居住を自然に認めるようになった。今やその人々は、社人として権現社の世話をするようになった。
 そのようにして春先のお祭りには、近在近郷の村々から大勢の善男善女が登るようになり、やがて、山を下りていた習合の仏達も、再び上って来た。龍爪権現に戦前の賑いがようやく戻って来たのである
龍 爪 山 福 寿 院
福寿院石標
大日如来木像(福寿院)
十一面観世音菩薩(福寿院)
龍爪山福寿院石標
大日如来木像(福寿院)
 十一面観世音菩薩(福寿院)
 龍爪山上には徳川時代を通じて、真言宗の寺があったといわれている。その寺は龍爪山福寿院であったとされ、現代牛妻、平にある福寿院の前身がそれである、といわれている。この寺は明治4年に、神仏分離令によって廃止となり、その祖師像と呼ばれる四体の仏像が、現在の福寿院へ下ろされた。
 現在の福寿院は、宗派も真言宗でなくて曹洞宗である。桂山の天桂山長光寺の末寺となっている。それでは新旧の福寿院の関係は一体どういう事かというに、恐らく昔の真言の福寿院は、徳川の初期に山上へ上り、その後を曹洞宗の長光寺の法系が継いだものと思われる。このようなケースは、割りに多いのである。
 明治4年に山上から下されて、同寺の観音堂に安置されている仏像は四体ある。まず十二支観音を中心にして─この観音像は最近の作である─向って右へ、十一面観世音菩薩、左へ、智挙印を結んだ金剛界の大日如来、いずれも銘作りの、慈悲溢れる仏像である。更にその左右に立つ像は、何の尊像であるか不明であるが、右手の端に立つ像は、或いは不動明王であろうか。又左手の立像は毘沙門天であろうか。短時間の散見であるし、又その方面の知識にも事欠き断定はむずかしかった。
 只着衣その他からすれば、仏像というよりは、習合の神像とも思われた。若しそうならば左手の尊像は亀の背に立って居り、或いは大己貴命であろうか。「龍爪山上亀石の上へ、大己貴命を祀った」と、古文書にも出ているのである。
 片方を大己貴命とするならば、右端の像は少彦名命をおいて外にはない。祖師像とは、この二体の木像をさして云うのであろうか。
 いずれにせよこの四体とも、銘彫りの、誠に慈味溢れる尊像である。この像はいつ頃、誰にょって作られたものであろうか。恐らく龍爪山上の木を使い、そこの僧達の敬虔な信仰心によって、作られたものであろう。徳川初期以前、室町時代以降の作であろうか。四体のうち神像と思われる二体はより古く、仏像はやや新しいと見受けられた。そして木像の丈であるが、高さは60糎余から1米余の立像及び座像で、大日如来のみ、蓮華台上に座している。
 因み龍爪山上に寺院があった傍証として、由比桜野の薬師堂の別当玄慈坊と、その弟子尊海の話のある事を、記して置きたい。
 この話は駿国雑誌にも、龍爪神異として載っている。愚痴文盲なる玄慈坊が、弟子尊海を道徳の出家に仕上げようと、尊海を連れて龍爪権現に日参した。そして月日のたった或日のこと、尊海が急に懐中より硯や筆を取り出し、真行草の漢字や仮名文字まで、すらすらと書いたのである。その筆勢や点画の美しいこと、和漢高名の人の書と異ならなかった。又天竺の文字はこのようなものだと「あびらうんけん」の五字を書いた。見ていた人々は肝をつぶし、奇異の思いをした。というのである。
 この話は権現の神異の話として載っているのであるが、龍爪山に寺院があり、そこの僧から尊海が学問を学んだ、という話にはならないだろうか。いかに神仏に日参したとしても、それだけでは漢字や梵字を書く事は出来ないと思うのである
望 月 氏 系 図
 龍爪神官発祥の地は中河内の樽村である。慶長17年樽の住人権兵衛は、龍爪山上へ上り、権現社の祠官になったといわれている。そして元禄3年に(万記録の記述によれば)その子孫は山を下り、麓の四ケ村へ住みついた。しかし樽の望月家の系図には、同家は寛文年間に樽村へ下ったと、記されている。
 徳川時代の古誌にも、龍爪神官には瀧氏、望月家ありと記されている。瀧氏は吉原と平山へ下り、望月氏は樽と清地へと下って行った。
 さてこの樽の望月氏には、系図一巻が伝わっている。この系図を当主望月利市氏の好意により披見する事を得た。その概要を掲げると、次の如くである。

 清和天皇─摩利支釼親王─六孫王 経基─多田満仲 良経─摂津守 頼光─左中将 頼信─右将軍 頼家─伊予守 頼義─八幡太郎 義家─六条判官 為義─帯刀前尉 義晴─左馬守 義仲─右馬頭太夫 義旭─左近太夫 義政─冠者太郎 義屯─越中守 義君─兵部少輔 義秋─兵衛太夫 義成─飛騨守 義胤─讃岐守 義真─治部太夫 義馬─大膳太夫 義正一六郎左衛門尉 義昭─帯刀尉 義仁─左近 義平─越前守 義実一権之頭 義友─信濃 義道─豊後 義隆一甚右エ門 義豊─権兵衛 豊正。 (以下略)

 以上のようになっている。
 望月家に伝わる陣羽織
望月家に伝わる陣羽織
望月氏系図(部分)
 望月氏系図(部分)  (清水市樽 望月利市)
 通説として望月氏は、信濃佐久郡望月邑より起り、清和源氏流滋野氏の後とされている。太田亮著「姓氏家系大辞典」には、
 望月として、
 滋野姓、信濃佐久郡望月邑より起る。当国の豪族にして、滋野系図に、「滋野為広─右衛門督為通─武蔵守則広─平三太夫重通─望月広重と出ている。
 この広重が望月姓を称えたのである。尚広重より五代後、太郎重義が、保元の乱で軍功を立てているので、望月の呼称が、平安時代から己になされていたことがわかる。
 さてこの樽の望月系図を見ると、滋野系々図と全く異っている。木曽義仲が、その中に入っていて、木曽系望月という事が出来る。尤も滋野(望月)53家といって、滋野氏は類縁関係によって、勢力を伸張して来たといわれている。
 それでは、望月氏系図をかいつまんで見ていく事にしよう。
 清和天皇を祖に仰いでおり、清和源氏である事がわかる。次の摩利支釼親王とは、見なれない御名である。普通には、清和天皇─貞純親王─六孫王経基となっている。
 次に多田満仲から左馬守(木曽)義仲までは、清和源氏流木曽源氏の系譜である。歴史に登上する赫々たる武将の名ばかりであるが、己に世によく知られているところなので、省略する。只この望月系図は、今日の史書の掲げる系図より二名程多い。それは摂津守頼光と、右将軍頼家である。頼光は摂津源氏の祖で、あの大江山の酒顚童子を退治した武将である。右大将頼家については不明である。
 しかしこの系図の真の意味と価値は、義仲以後の系譜にあると思われる。誠に興味深い貴重な記録であるという事が出来る。それでは、添え書きのあるところを見ていこう。
右馬頭太夫 義旭
飛弾太夫義光ト云フ人、義旭ヲ取立テ、則我聟ト為ス。名ヲ竹千代ト改ムル也。
これは義仲打死後の苦境であろうか。
兵衛之太夫 義成
是迄六代ノ内、飛弾ノ国北濁川ト云フ山中ニ居城也。
望月飛弾守 義胤
徳治元年丙午春信州望月ノ城ニ引移ル。則チ左近丞政治家へ遣ス。是ヨリ姓ヲ望月ト相改ムル也。
延元2丑12月新田義貞公越前ノ国ニ而御自害ノ時御共也。
この義胤の時、飛弾から信州へ移っている。「左近丞政治家へ遣ス」というのは、聟入りしたという事であろう。この時始めて望月姓となったのである。
望月越前守 義実
明応2(3)甲寅春、甲斐龍王ニ引移ル。
望月権之頭 義友
大永6丙戌春、故有リ武田五郎信虎公ニ召出サレ、則チ家臣トナ成ル。万力筋桜井、松本頂戴ス。
即チ桜井ニ住ム。此ノ時我ガ系図御尋ネ之有リ、古系図虫喰ヒ大破ニ及ビ、之ニ依リ書キ写シ、披見ニ入レ奉リ候。
望月信濃 義直
天文5申3月8日、勅使トシテ三条転法輪藤大納言御下向ノ時、長田迄出迎へ役也。
望月豊後 義隆
永様4川中島合戦ノ時、海野ロニ耐児島弥太郎打取リ。粕木出陣。天文15年3月上田ケ原出陣。
馬廻リ役相勤ム。
望月甚右エ門 義豊
省 略
望月権兵衛 豊正
省 略

 以上が、望月権兵衛、所謂「樽の権兵衛」迄の系譜である。尚望月甚右エ門と望月権兵衛の項の添え書は、Tの「龍爪山開創のこと」に於いて己に記載したので、それを参照して戴きたい。尚権兵衛以下の系譜は省略する。
 この系図は年号その他、少し史書の通説と合わない所もあるが、それだけに望月家伝来の、迫真の記録ということが出来る。
 望月氏は源家木曽流の後裔として、望月城の望月氏へ聟入りし、望月と改姓したのである。その後武田へ仕え、天目山に於いて勝頼打死の後は、甚左エ門父子は、織田の追求を逃れて、身をもって山中へ隠れた。それにはそれだけの理由があっての事であろう。やはり成敗されるリストに載っていたのであろうか。甲陽軍艦にも「信長甲州入り仕置の事」として、「甲信駿河(今川滅後武田家臣となった入々)の侍大将はいずれも、家老衆と共にあらかた殺された」と、記されている。
 さて駿河新風土記に、「龍爪神官に瀧氏、望月氏あり」という、その瀧氏との関係であるが、これは至って近い類縁関係にある、と思われるのである。平山瀧家文書では、望月権兵衛は瀧権兵衛となっており、一体の祖となっている。
 最後にこの望月氏系図は、更に一本伝わっている事を紹介したい。それは「望月氏の歴史と誇り」(金井重道、望月政治共著)という、一書の中に、斎藤諭氏所蔵として載せられているのである。両系図は細部に少しの異同はあるが、原本は一つであると思われる。同系図がいかなる理由で、斎藤氏に伝わって居るのか、そして両系図のどちらが元本であるのか、等々、興味のつきないところである。