概 観
龍爪山塊の主峰である薬師岳、文珠岳の頂上には、それぞれ薬師如来、文殊菩薩の石像が祀られている。いつの頃誰によって造立されたのかはっきりしないが、一応徳川時代の中期以降の作ではないかと思われる。只文殊菩薩の場合には、その石龕の台石に刻まれた銘文の中に、「石仏は牛妻の創建に係るなり」と記されている。薬師如来の像も、同じ頃同じ人達によって、造立奉祀されたものであろうか。
薬師岳、文珠岳は、静岡、清水の地域から、北方に眺められる2つの峰である。古くは微雨峰とか、時雨嶽とか呼ばれていた。そのように雅びに呼んだのであろう。駿河古俳流の1つに時雨窓があるが、それはこの時雨峰に因んだ名称である。
又龍爪暮雪とか、龍爪に雪が降らないと春が来ないとかいわれるのも、この峰に降る雪の事である。
二峰のうち向って右、東側(実際には北東側)のやや丸みを帯びた頂が薬師岳であり、標高は1,051米。西側(南西側)の即ち左手に立つ、やや尖って見える頂が文珠岳である。標高は1,041米。薬師岳の方が10米高い。
龍爪山という山名の起源を説く説に、「
瘤双山」という一説がある。この説は二つの峰の容姿が、恰も2つの瘤の如くであるという事で、その音をとったものである。もってその山容をしのぶ事が出来る。
それではここで、庵原郡誌の龍爪山の記事を見る事にしよう。庵原郡誌は、管下各村の村誌を本にして、大正4年に作製されたといわれている。その第2節、山岳の項に、
「龍爪山ハ西奈村平山ニ在リ、本郡第一ノ峻峰ニシテ、郡ノ西境ニ蟠踞シ、其ノ山脈四方ニ走リテ嶺丘陵ヲナス、其ノ山西ハ安倍郡ニ連リ、北賤村ニ接ス、山勢秀抜、前峰文珠ケ嶽ト相対峙シテ、群山ノ上ニ挺出シ、遠ク之ヲ望ミテ益々其ノ高峻ヲ見ル、海抜三千六百尺、遠洋航海ノ船々、望ンテ以テ針路ヲ取ルトイフ。
山三峯ヲナス、其ノ最北ナルヲ龍爪本峰トナシ、中ナルヲ薬師ケ嶽トイヒ、南ナルヲ文珠ケ嶽トイフ、中腹ヨリ下ハ老樹欝蒼、頗ル幽邃ヲ極ムルモ、山頂ニ至レハ、出土赭色ヲ帯ビテ、山骨露出シ、樹木ヲ見ス、其ノ四方ノ眺望豁然一眸ニ聚ル、其ノ登山道路ハ、山下平山ヨリ又、今新旧二道アリ、新道ハ十余年前、本郡高部村久保田o氏の発起開鑿セシモノトス、山麓ニ御手洗アリ、旧道是ヨリ左方ニ入リ、一里ニシテ穂積神社拝殿ニ至ル、其レヨリ十町ニシテ本社ニ達シ、又登ル十余町ニシテ絶巓ニ至ル、奥宮ト称シ石祠ヲ安置ス。
山ヲ龍爪山ト称スルハ、伝云、往事一日夏雲靉キ、竜アリ此山ニ下ル、山木ニ触レ其ノ爪ヲ落ス、野叟之ヲ拾ヒ得タリ、因テ龍爪ヲ以テ山ニ名ツクト、又薬師ケ嶽文珠ケ嶽ト称スルハ、其ノ二峯駢立スルニ因リ、何レノ時代ニカ、文珠薬師ノ二尊対立ニ擬シ、其ノ山名ヲ附シタルモノナラソ…………中略
文珠ケ嶽ハ1ニ文字ケ嶽トイフ、是或ハ旧称ナランカ、龍爪山ノ南面、別ニ一峰ヲナシテ最モ高峻タリ、海抜三千四百三十五尺、人総称シテ龍爪山トイフ。」
この庵原郡誌の記事は、先に述べた如く、西奈村誌を底本にしたものであるが、又少し異った記述になっている処もある。しかし山状の記述等、簡にして要を得ていると、云う事が出来ると思う。
但し文中明らかな誤りがあり、それは何処かといえば、「山三峰ヲナス、其ノ最北ナルヲ龍爪本峰トナシ、中ナルヲ薬師ケ嶽トイヒ、南ナルヲ文珠ケ嶽トイフ。」という個所である。実際には山は三峰をなしてはいない。二峰である。この記事は西奈村誌を踏襲したものであるが、西奈村誌の編纂は西奈小学校に委任されて居ったと聞くが、何故このような誤りをおかしたのであろうか。いずれにせよ、この記述は、実際を知らない人によってなされたものであろう。
「(龍爪山は)山勢秀抜、前峰文珠ケ嶽ト相対時シテ、群山ノ上ニ挺出シ」ということで、文珠の後峰即ち薬師岳が本峰なのである。但しこの二峰は南方から見る限り、前後というより左右に並んで見える。
さてその誤りの原因は、実は次のようなものではなかったかと思う。即ち、狭義に龍爪山といえば、穂積神社の立っていた平のことであるが、この龍爪山と、薬師岳、文珠岳三者の高低を考えない、位置の関係だけを云うならば、まさにその記述に合致するのである。即ち一番北東に龍爪山(穂積神社)があり、西南1キロ余に薬師岳、更に西南1キロ足らずに文珠岳がある。この狭義の龍爪山つまり龍爪平は、昔から黒川(清水市西里)或いは俵峰へ越す峠で、山の鞍部である。この平と薬師岳頂上との標高差は、約300米ある。
この龍爪平から薬師岳への道は、まことに急坂な峻路であって、普通に歩いては一時間以上はかかろうかという難所である。胸つき坂、梯子坂といわれる所以である。しかしこの道は「東海道自然歩道」の一部であり、現在小学生の遠足も、高学年の児童達は、薬師岳、文珠岳目指して元気に登って行く。
薬師から文珠への道は、比較的簡単である。下って上って頂上へ出る。晴れた日の文珠山頂の眺めは全くすばらしい。西奈村誌にも、「羽化登山の想あり。云々」と記されている。
以上のように西奈村誌、庵原郡誌の記述は、実状に合わないものである。総称していう龍爪山は、あくまでも「瘤双山」であって、「瘤三山」ではない。敢えて三峰を数えるならば、数里奥に聳える真富士山を、龍爪本峰としなければならない。しかしそれは己に龍爪山の概念とはかけ離れる。
又江戸時代より駿府からの眺望として、三峰屹立と言っているのは、文珠峰続きの「大 平山」(若山)」が、前面に高く聳えて見え、あたかも三峰屹立の観を呈するのである。これも特定の位置方角─安東、麻機方面など─からの眺めであって、実際の標高差は約二百米程低い。文珠山頂より見れば足下前方に伸びる尾根のふくらみでしかない。
ここで郡誌と重複するが、記事がわかりやすいので、西奈村誌を見よう。
「……麓に垢離取場とて、一の御手洗あり。旧道は之より左方にあり。一里にして(一丁毎に路標一基を建つ、すべて三十六基あり)拝殿に達し、尚七、八丁にして本社あり。……本社より十町余を上れば絶頂なり。ここに奥の宮とて石標一基あり。之より南半里を隔てゝ文珠嶽に出づ。頂上に石室あり。此の辺一の蔽なく、海岳の風光一眸に集り、眺望甚だ佳なり。」
以上麓から文珠山頂まで、道順がわかりやすく述べられている。垢離取場から一里(金剛界の三十七尊になぞらえる)にして拝殿に達しという。この拝殿は、東京神田精行舎印行の、龍爪山穂積神社境内全図に於ける、祈祷所にあたる。ここから七、八丁、一町を百米強として、七、八百米程上った所に、本社があり、この本社のすぐ前に、昔の拝殿はあったのである。丁石は垢離取場から、この拝殿までの間に立てられていた。
さてこの本社から十丁余上れば、即ち胸突坂の薬師道を千米余登れば、そこが絶頂であり(本峰であり)、ここに奥の宮とて石標が一基あった。この石標一基とは、勿論薬師如来石像をさしているものと思われる。庵原郡誌に云う「奥宮ト称シ、石祠ヲ安置ス」という、その石祠はなかった。露座の石像一体があったのである。しかし時にはあたりの木材を使って、小屋が立っていた事もある。ついでに今まで掲げた距離であるが、かなり主観的なもので、実測されたものでない事を、申し添える。
さて以上で薬師、文珠を主峰とする龍爪山の山容の説明を終りたいと思うが、ここで、近隣の村誌の記すところを、少し紹介してみたいと思う。先ず「安倍郡千代田村誌」には、
「龍爪文珠ノ両山村ノ北方ニ聳エ、余脈西南ニ走ル為メニ北沼上ハ山地ニシテ高燥ナリ。……文字岳(文珠)ハ本村ノ北部ニ龍爪山ト並ビテ聳ユル山ニシテ、高サ一千四十一米・頂上ハ庵原安倍ノ郡界ナリ。雑草生ジ秣場ナリ。麓ハ殖林盛ニ行ハル。頂上ニ文珠ヲ祀レル小祠アリ。
続いて「安倍郡賤機村誌」を見ると、
「白根山ハ駿甲境ニ屹立セル高山ニシテ、其ノ山脈四走セリモノヽ内、安倍川の東岸ニ沿ヒ南下セリモノ、本村ニ至リテ一大隆起ヲナシ、殆ド一座ノ山岳ヲナス。之を龍爪山トイヒ、其最高峰ヲ文珠岳ト云フ。此ノ山ハ安倍郡賤機村、同千代田村、庵原郡両河内村ノ三村ニ跨リ、高サ実に一千四十一米突アリ。頂上ニ文珠菩薩ノ石室アリ……。
此ノ山ハ古来大木ノ繁茂シ居タリシモノナランモ、年々野火ノタメニ焼カレ、山頂ニ枯朽シタル数囲ノ大木数本ヲ存ス。他ハ茅草若クハ矮小ナル雑木ノ繁茂ニ委セル面積実ニ広大ナリ。云々。」
この賤機村誌に云う「年々野火ノタメニ焼カレ」は、西奈村誌に同様の記述がある。
「古来龍爪山脈一帯の地茅原にして、狐狸の跳梁を檀にせるのみならず、厳冬草木凋落の際、或は故意に或は過失よりして、野火の炎々として紅蓮の焰天を染むることあり。然るに明治42年野火取締の励行と、植林事業の進歩と、保安林の編入とは、このあとを絶たしめ、不毛の原野は漸次縮少しつつあり……。」
と、この野火の多くは、焼畑農業のためのものであった。村人達がそのようにして蕎麦を蒔き、或はカソゾー(楮の訛り、実際は三椏)を栽培したのである。筆者年少の頃、よくこの火を見た事がある。昭和の初年の頃であった。
以上庵原郡誌、西奈、千代田、賤機の各村誌を見ながら、龍爪山について述べたのであるが、その神仏関係の記述を見ていくと─特に庵原郡誌、西奈村誌は顕著に、強い神仏習合の否定と、神道第一主義の考え方というものに、ぶつかるのである。神仏分離、神道国教化は、明治維新以来、政治の中心的政策であったが、その線上にあって、仏教的な事象も、神道的に解釈しようとしている点が目立つ。それでは、それらのいくつかを見て行く事にしよう。
先ず庵原郡誌、
「山麓ニ御手洗アリ、旧道是ヨリ左方ニ入リ……云々。」
この「御手洗」がそうである。実はこれは単なる手洗い所ではなく、「垢離取り場」である。垢離をとって六根清浄となり、いよいよ行場(参道)へ入る場所である。「垢離取り場」という習合的名称を嫌ったわけである 底本の西奈村誌には、「麓ニ垢離取場とて、一の御手洗あり」となっている。
村誌は「御手洗」という語を加えて、「垢離取場」の習合色を緩和した。
更に、郡誌には先出のごとく、
「又薬師ケ嶽文珠ケ嶽ト称スルハ、其ノ二峰駢立スルヨリ、何レノ時代ニカ文珠薬師ノ二尊対立ニ擬シ、其ノ山名ヲ附シタルモノナラソ」
として、続いて、
「前穂積神社祠官故高田宣和考ニ云、兄奇霊ケ嶽、弟奇霊ケ嶽ト称セバ可ナラソト、二峰ハ伯仲ノ如クナレバ、兄弟ノ文字或ハ然ランカ、文珠ケ嶽ニ文珠ノ石龕ヲ安スル如キハ、勿論後人ノ好事ニ出タリトノフ。
文珠ケ嶽ハ1ニ文字ケ嶽トイフ、是或ハ旧称ナラソカ……云々。」
高田宣和は穂積神社初代の神官である。国学を学び、平田流神学を奉じていた。龍爪山新道を設計した久保田oは、その門人である。
この「兄奇霊」が薬師」と転訛したという、この説はどう考えても付会に過ぎる。編老は、「二峰ハ伯仲ノ如クナレバ、兄弟ノ文字或ハ然ラソカ」と、同調しているが、これもどうも肯定しかねる。
又高田宣和は同誌の穂積神社の項で、「薬師ハクズシヲ転訛シ、随テ一峰ヲ文珠ノ名ヲ附スルニ至ルナラン」とも云っている。然しこれには(其ノ説稍穿鑿ニ堕ツ)と、編者の註が記されている。
更に、「文珠ケ嶽ニ文珠ノ石龕ヲ安スル如キハ、勿論後人ノ好事ニ出タリトイフ。」といっているが、これは手厳しい表現である。勿論薬師如来も文殊菩薩も、単なる好事家のてすさびによって安置されたのではない。それにはよって来たる、長い歴史がある事を知らねばならぬ。
最後に、
「文珠ケ嶽ハ1ニ文字ケ嶽トイフ、是或ハ旧称ナランカ。」といっているが、この「文字ケ嶽」という言葉は、西奈村誌より1年早く世に出た、千代田村誌にも載っている。しかしこの言葉は古い文献には見当らず、思いつき急造の語の感じである。やはり神仏分離の考え、排仏思想のあらわれであろう。
以上簡単に見て来たのであるが、しかしこの神仏習合というものは、日本民族千年にわたる慣習であって、そこに温蔵され、育くまれて来た文化が、如何に重要なものであったかという事を、私達はここで再認識する必要があるのではなかろうか。明治維新の神仏分離、廃仏毀釈は、この千年の伝統文化を、一朝にして破壊し去った。惜しむべき愚挙であったと云われている。
さてここで閑話休題として、2つの事に触れて置きたい。その1つは、「文珠岳」と「文殊菩薩」とでは、「珠」と「殊」の違いがあるという事である。本来はすべて「殊」となるべきところを、文珠岳については、「珠」と書き誤った。今まで見て来た郡誌、村誌は、「文殊菩薩」もすべて「文珠菩薩」と書き誤っている。小稿も、郡誌、村誌の転記についてすべて原本に従った。
更に1つ、一般に薬師岳を龍爪本峰としているが、昔から文珠岳を龍爪本峰とする考え方もあった事を附記したい。龍爪山の最高峰は文珠岳で、1,041米であると、筆者の少年時代には教えられた。それは旧陸軍参謀本部三角測量標(現一等三角点)があった故かも知れない。この測量標は、材木で組み立てられた四角錐の楼で、高さ2米程の所に、八畳敷位の桟敷があり、少年時代にはその上へよじ上って遊んだ記憶がある
。
薬 師 如 来
薬師岳頂上の
薬師如来
さて庵原郡誌、西奈村誌の中に、本社から十町余上れば絶頂で、そこに奥の宮とて石標一基あり、と書かれている事は再三紹介したところであるが、この石標とは、現在立っている薬師如来である事に間違いない。何故単に石標といったかと言えば、先に述べた如く、神仏分離、排仏の考え方から、穂積神社の奥の宮として、薬師如来とは言い憚かった為と思われる。然しながら、ここに薬師如来が祀られているという事は、非常に興味深く又意義深いと言わねばならぬ。
この薬師如来を拝するに、二重円光のある舟形の光背を負った、二尺程の立像である。単に四角の座石の上に立っている。右手は与願印を結び、左手に薬壼を捧げている。薬師像は数少ないとも云われているが、典型的な姿をして居られる。
お顔は誠に親しみ容すく庶民的であるが、しかも慈悲深い温顔である。この山頂にあって万古不変の姿で立ち続け、どのような人に対しても平等無差別、12の誓願をかかげて、この世の人々と結縁して居られる。
薬師如来又は薬師瑠璃光如来は、この世界から数限りない仏の世界を過ぎた東方の、浄瑠璃世界という仏国土に住み、その主尊であるといわれている。東方浄瑠璃世界とは、東方のすばらしい珠玉のような世界という事であろう。その様子は極楽園と同じとされている。
この瑠璃光仏がまだ菩薩として修業されていた時に、12の誓願を立てられた。この誓願が成就して仏になられたのである。その第六と第七の誓願が、即ち人間の不治の病、又はいろいろな難病等を必ず治癒させるという誓願である。その事から薬師如来は、医療の仏、薬の仏として信仰されて来た。又現世利益の仏としても信仰されているのである。そして医王とか、大医王と言われている。この医王というのは、人の病いを治療するように、人々の煩悩を取り除いて、悟りの境地へ到達させるという、そのような意味もあるのである。その意味ではまさに、釈迦半尼仏 即ち釈尊を称える名号でもある。
そのような事から、仏像も初期のものはしばしば釈迦と混同し、或は区別しかねるものもあるといわれている。或いは胎蔵界では大日如来と同体とされている。薬師如来も随所に主尊となるべき性質を持った仏という事が出来る。
夏は涼しく冬は暖かいこの東海の地は、或いは鈍重で内陸的な大和地方よりすれば、底抜けに明るく、古い昔の人々は、ここに現実の浄瑠璃界を見たのかも知れない
。
文 殊 石 龕 銘
ここで再び西奈村誌を見るならば、「之(薬師嶽)より南半里を隔てて文珠嶽に出づ。頂上に石室あり。云々。」となっている
。
文殊岳頂上の
文殊仏石龕
石龕銘部分
文殊石龕銘
このように文珠岳の頂上には石龕があり、その中に文殊菩薩が祀られていたのである。
或る時のこと文珠山頂へ登り、この石龕の台石を何気なく見ると、その向って左側の所に、何か字が刻まれているのに気がついた。驚いてすこし苔を落しながら、石の面をこすってみると、どうやら「駿州小嶋藩中」と読めるのである。小嶋藩は駿河小島(現清水市)に陣屋を置く1万石の藩である。その領地は、山中、府辺、浜方などに31ケ村を支配する大名である。勿論、平山、長尾、北沼上等は山中の村として、その藩屏の中にある。それで驚いて、更に読んで行くと、「奥平直右衛門」、「稲葉左太夫」、「伊藤均平」等という名前がわかって来た。奥平直右衛門といえば小嶋藩の筆頭重役で、他藩ならば筆頭の家老という所である。しかしその日は時間に追われ、それにとどめて下山した。この山頂で小島藩士の名前を見ようとは、全くの驚きであった。奥平直右衛門、伊藤均平等の名は、小島藩から毎年村方へ下付される、年貢割付状、所謂「免状」によってその名を知っていた。
その日は時間がなかったので下山し、後日にその判読を期したのである。文珠山頂への登山は、平山側三本桜辺より普通に歩いて3時間以上、鈍足ならば悠に3時間半はかかる。下山も3時間を見なければならない。但し登山家その他脚をきたえている人は、この限りではない。
暫くして再び文珠山頂へ登った。座石の北側面をこすりながら読むのであるが、苔むして或いは風化磨滅していて、中々読めない。しかしどうやら、「駿州小嶋藩中、奥平直右衛門源師□、稲葉左太夫□□□、伊藤均平源自応、渡辺登平源興行、矢島周蔵源政程」等の名が判読でき又、「栗田久左衛門、加藤弥平治、福嶋□左衛門、又、駿府安倍町、野崎彦左衛門の名も見えて来た。
安政3年の小島藩分限帳によって見てみると、奥平直右衛門が筆頭にあり、御年寄として石高、二百石。伊藤均平がやはり御年寄として、百五十石である。稲葉左太夫の名は見えず、己に代替りしているのであろうか、稲葉五左エ門とあるのを、その嗣とみるならば百石である。
稲葉五左エ門は御側用人である。尚、石龕の立てられたのは弘化3年であるから、安政3年まで丁度10年経っている。渡辺登平は御物頭で、宮ケ崎詰代官役。高は八人扶持、役料金七両、筆墨代壱両、と記されている。一人扶持は1日五合とされ、1年を360日として計算される。矢島周蔵は己に隠居し、矢島源五右衛門が御内用人として五十石を取っている。栗田久左衛門、加藤弥平治、福嶋□左衛門 等については、分限帳に記載がない。恐らく藩士以外の有力な協力者であろう。駿府安倍町、野崎彦左衛門は、代々彦左衛門を名のる、駿府在住の富豪である。小島藩の御用達をつとめ、陰徳の聞え高かった人といわれている。ここに名が出ているのは、九世徳成であり、徳成は天保8年、将軍御代替り御祝儀のため、駿府総代として出府登城した。明治11年2月4日72才で没している。
さてこの人々の名前を調べている時、フト正面の水鉢の置いてあるあたりを見ると、やはり文字があるではないか。何だろうと思って水鉢を取り除いてみると、こちらの方は更に風化がはげしくて、判読困難であったが、水鉢が置いてあった部分は、尚しっかりしていて、或る程度は拾い読みする事が出来た。するとその中に「我藩臣」という字があったのである。我藩臣というからには、この文は藩主小島丹後守が書いたものに違いない。この文殊仏を祀るに当っての由緒を、趣意を書いたものに違いない。これは大変な事になった。藩士の名前よりこの方が重要であったのである。しかしその時も己に帰りかけの時であったので、残念乍ら後日を期して下山したのであった。この頂上での滞在は余程早朝より登山しない限り、2時間位しかとれないのである。日短かな時には午後3時頃には、下山にとりかからなければならない。
第3回の登山は、穂積神社の老杉に時鳥がしきりに鳴いている、梅雨晴れの日であった。しかし、残念な事に、頂上に着いた頃から、雷鳴が鳴り始めた。これには何とも致し難く、早々に退散の運びとなった。山頂で雷にあう事は、全く危険である。擂鉢を逆さにした頂上では、かくれる場所がない。
雷は横からも下からもやってくる。
このようにして其の後数回登頂し、写真におさめ、拓本にとったりしたが、技術も未熟な事もあって、依然として解読出来ないのである。目下ずっと作業を続けている次第である。若しこの場所が平場であったら、或る程度は解読されていると思う。地理的条件が障害となっているのである。
右の如き次第で不本意ながら、小嶋藩主松平丹後守の銘文を、不完全のまま掲げる事にする
。
文殊嶽在龍爪之西南二里
青
□千仭嵐翆煙□□□□之
窟
也曽有一石文殊仏屹然聳立
尊客□□□□像
坐爾寥可想
□故龍爪岳下之民有秣場之
地訟久而不決弘化肉午秋
官
分境界丁未十月我藩臣
奥平師□伊藤自応渡辺興行
矢嶋政程等春 旨検之道適
出於此□□拝之時府人野碕
生亦□□日願作一石龕安置
之皆□其志乃為保長問故日
此地也牛妻平山北沼上三邑
接界而石仏者係牛妻之創建
也乃□□□彼亦喜応造立之
□□□□定矣道取長尾村所
出之石
命南沼上村石匠某作
巧三月某日竣巧此日也萬衆
□□□引拾上経営事了几関
此役者皆岳下之民也其意以
為□日之□ 公裁理正永為
民庶之
利是亦仏之霊護矣宜
力□□故其盛如是而造立
之□□□□野崎生及師□義
□自応興行政程保長首□□
□□□□□□一小石仏而一
□□□□□□
此也
抑亦倖
矣□□□□□□□待時布施者
□□□霊護□不朽長衛府城
□□爾云
戊申春三月
藩主、氏名 [印]
以上の如くである。判読出来る文字は八割強であるが、なかなか解読する事は困難である。更に熟語や動詞が不明であれば、一字わかっても、読み続ける事は不能になる。しかしわかる所だけ読んでみると、
「文殊嶽は龍爪の西南二里に在り。青□千 の嵐、翆煙……の
窟なり。曽つて一石有り、文殊、仏屹然として聳立す。尊客……像坐すのみ、寥想う可し。故を……に、龍爪岳下の民有秣場之地、訟久しくして決せず。弘化丙午(3年、
1846)秋、官境界を
分す。丁未(同4年)我藩臣奥平師□、伊藤自応、渡辺興行、矢嶋政程等、旨を奉じて之を検す。道適ま此に出づ。……拝の時府人野 生亦た……曰く、願わくは一石龕を作り、之を安置せんと。皆其の志を……す。乃為、保長故を問う。曰く此地や牛妻、平山、北沼上三邑境を接す。而うして石仏は牛妻の創建に係るなり。……の故彼亦喜び応じて之を造立す。……長尾村所産の石を取り、南沼上村石匠某に命じて作らしむ。巧3月某日竣巧す。此日や萬衆……引き拾い上げ、経営の事了す。凡そ此の役に関る者は、皆岳下の民也。其の意を以って……公裁理正永く民庶の利をなす。是れ亦仏の霊護なり。宜しく力を
し、……故に其の盛是の如くにして之を造立す。……野崎正及師□義、…自応、興行、政程、保長首め…………一小石仏にして一…………此なり。抑も亦倖いなり。…………布施は……霊護…朽ず、長く府城を衛る……と爾云う。」
以上の如く、肝心のところがあまり読めないのである。漢文の場合には、一字が読めないと、一文が全く読めないという場合が多い。この読み下し文は、その意味でさぞかし誤読が多いと思う。時間をかけて、解読を続けて行きたいと思う。
それではこの文を、わかる範囲で少し解説したいと思う。
先ず書き出しは文殊岳の位置と、その山相が述べられている。それから文殊菩薩の石像の立っている姿。それからいよいよ石龕造建に至るまでの所以を記している。
「龍爪岳下民有秣場之地、訟久しくして決せず」とは、先に「万記録の世界」で紹介した、龍爪山秣場争論の事である。何回かある出入りのうち、特に天保12年に始まった争論は、再三にわたる見分、又江戸評定所への村役人の数度の召喚等、弘化3年(丙午)に裁許(判決)が下りたが、その間実に5年8ケ月の長きに及んだ。
「弘化丙午秋、官境界を
分す」というのは、弘化3年に幕府の役人が、古林と秣場それに民地との境界を、改めて線引して行った。これは元禄2年の境界を、再確認する形で行われたのである。その翌年の弘化4年10月に、地頭である小島藩の役人が、幕府の指示に従ってそのあとを検査して歩いた。それが、「丁未10月我藩臣云々」の文となっている。尚刻まれた銘の中に、空字になっているところが数ケ所あるが、それは官(幕府)に敬意を表して、一字分開けてあるのである。古文書に見る手法である。
さてその検分して歩いた道は、現在も
見分道として残っている。その道は瀬名新田の中程の東稜から、柏尾峠を通り、更に龍爪平まで北上して、薬師岳、文珠岳へ登っている。それから尾根を南下し、牛妻境までは東海道自然歩道と重なっている。小島藩の役人が旨を奉じて線引きのあとを検査して歩いて、「道適ま此に出づ」ということで、文珠山頂へ出て来たのであった。
発願者は、駿府安倍町に住む野崎彦左エ門である。「願わくば一石龕作り、これを安置せん」と提言したのであった。野崎彦左エ門は、先に述べた如く、代々彦左エ門を名のり、府中の町の町頭を勤めて来た家柄である。小島藩の御用掛りとして、拾人扶持を戴いている。特にこの人九世徳成は、詩、俳諧をよくした教養人で、隠徳の聞え高かった人といわれている。
この徳成が、駿府総代として江戸城に登り、将軍に拝謁したのが天保8年、31才の秋である。それから弘化4年は丁度10年後になる。
野崎彦左エ門の提言はたちどころに承認された。「喜び応じて」と、その賛成の様子がしのばれる。藩の重役も名を連ねて、事業推進の運びとなった。山麓長尾村所産の石を使い、南沼上村の石工某に命じて作らせ、3月某日に出来上ったと記されている。この優美な姿をした石龕は、麓三ヶ村の人々によって山頂へ運ばれ、その中へ文殊仏を安置したのであった。
この安置された仏は、それ以前からあったものの如くである。「石仏は牛妻の創建に係るなり」と記されているが、そこらの所は解読不充分で、残念ながら確かな事はわからない。今少し時間が欲しいと思う。
「公裁理正永く民庶の利を為す、是亦仏の霊護なり」。「公裁理正」とは、今回の龍爪山秣場の裁判は公平を旨とし、道理を正し、それによって永く関係の庶民の利益のために解決された、といっている。それも亦、この頂に座すみ仏の加護の故である。よって岳下の人々が一致協力し、誠に盛会裡に、この造立奉祀の業がなされたと、讃えている。そして仏の霊護はいつまでも朽ちず、長く府城(駿府城)を守って居るのである。と藩主の銘文は結ばれている。時は戊申春3月、即ち年号改まった嘉永元年春3月の事である。その次に藩主の署名印があるのであろうが、そこの所は風化して、全く判読不可能である。
しかし時の藩主は、第十代、松平丹後守信 賢分であろうと思われる。丹後守信賢は、丹波亀山、松平紀伊守の二男で、天保6年に小島に入部している。8月25日、領内の村々寺社方御見え御呼出し、と記されている。
尚十一代藩主は丹後守信 進であり、藩主位の継承は嘉永5年である。黒船騒動の折の小島藩の当主は、この信進である
。
文 殊 菩 薩
ここで文珠山頂の文殊菩薩を語る前に、一般論的に文殊菩薩を概説するならば、文殊菩薩の原語は「マンジュシュリ」で、漢字を当てて「文殊師利」と書いている。多くの大乗経の中で、文殊は菩薩の上首とされているのである。又文殊は此の国土出生の菩薩、即ち実在の人物であったという説もある。印度舎衛国のバラモンの子として生れた、とも云われている。
知恵の文殊として、或いは卯年の守り本尊として、古くから民間に信仰されて来た仏様である。
この菩薩は東北方清凉山に住むと云われ、その清凉山とは、中国山西省の五台山を指すとされている。
文殊菩薩の像は、獅子や孔雀に乗るもの、或いは白蓮の上に座るもの等、いろいろある。そのそれぞれの姿は、それぞれの功徳をあらわす為のものである。胎蔵界、金剛界両界の曼茶羅に描かれて居り、金剛界の文殊菩薩は獅子や孔雀に乗り、
さんまやぎよう
金剛剣を
三昧耶形として居る。獅子に乗る姿は、文殊菩薩の智恵と慈悲の力は、かかる猛獣さえも馴致させるという、絶大な力を現わしている、といわれている。
けい
胎蔵界の文珠は、頭頂に五髻を結ぶ童子形である。そして白蓮の台に座している。五髻は五智を表わすといわれ、童形は天真の姿をあらわし、衆生を済度するといわれている。
文珠山頂の文殊菩薩を拝するに、輪光の光背を負い、蓮華の台に座した座像の如
けい
く思われるのである。髪形は恐らく五髻の、童子形であろうか。五髻の姿は文殊の本体とされている。像の大きさはさして大きくなく、先に掲げた藩主の銘の中にも、「一小石仏」という事で、優美な石龕の中に収められていた。薬師山頂の薬師仏より、小さめであった。お顔は写真で拝するに、わずかに微笑して居られる如く、誠にやさしい表情にうかがえる。しかしその三昧耶形は確認出来ない。
何故かといえば、誠に惜しむらくは、現在この尊像は文珠山頂にはないのである。心ない人の為にいずこかへ運び去られてしまった。どういう人がどのような心から、持ち去ったかはわからないが、誠に惜しみても余りある痛恨事と云わねばならぬ。その時期は昭和55、6年の頃であろうかと思われる。現在は蓮の台座のみが残り、その上に匿名信者による交殊菩薩と刻んだ、四十糎程の塔が建てられている。この由緒ある尊像が、1日も早く文珠山頂へ戻される事を、念願して止まないものである。
しかし不幸中の幸いと云うか、現在わずかに数葉ではあるが、その尊像の写真が残っている。写真は登頂の記念に、石龕の前で撮られたものである。この写真によってのみ、わずかに文殊仏をしのぶ事が出来る。けれどもこの尊像は、絶えず信者奉施の白布に、肩を覆われていて、その全容を拝する事が出来ない。
この文殊仏が運び去られたという噂があり、その調査確認のために登頂したのが、筆者の小稿に係る抑もの機縁となった
。
結 び
久し振りに登った龍爪山は、昔日の面影もなく荒れ果てていた。戦前を知る者にとって、まさにおどろきである。そのおどろきと共に、尚山中各所に残る神仏習合の跡が目についた。そして龍爪信仰とは一体どういうものであったか、その原点に立ちかえって、龍爪山を眺めてみたいと思ったのである。
明治維新の神仏分離は、国家神道の確立という事であるが、一面昔から続いた神々の系譜を、そこで断ち截ってしまった、と
云えない事もないのである。民俗の中にあり、民衆と共に生き続けた神は、いつも民俗の心の中に「帰り来る」祖霊神であった。上代仏教および修験道を経て成形された祖霊神、それが権現であったのである。
明治維新によって確立された神は、所謂「降臨」の神であって、いかめしい天からの「君臨」の神である。明治新政府によって、すべての神々は、この降臨の神のもとに統率され、体係づけられていった。龍爪山穂積神社も例外ではなく、すべてを一新したのである。
龍爪信仰の長い歴史を考える時、特にその原点(質)を尋ねる場合、やはり維新以前の龍爪権現の古態に求めざるを得ない。民衆の習俗は一朝一夕で変わるものではないが、維新後の穂積神社の姿は明治、大正、昭和と時代と共に歩んだ、独自の歴史であると云わねばならぬ。
ともあれ、龍爪平は神仏分離によって、仏教色を一掃されたが、2つの山頂はその払拭を免れたのである。この事が平は神、上は仏という、一山であり乍ら、二つに区別される素地となったのである。
永い年月山頂に座したまい、山頂を訪れる人々と結縁し、又山麓四囲の人々に五穀豊穣、万民和楽、無病息災の広大な功徳を垂れ給う、薬師如来、文殊菩薩の記をこの辺で終る事にする。