万記録、正しくは「古今万記録 全」は、龍爪山神官瀧長門正正秀の記した、古今万端よろずの書き留めである。よろずの書き留めとはいっても、龍爪権現の記事が主である事は勿論であるが、それ以外にも幕末期の郷土の記録のいくつかは、興味のつきないものがある。この万記録に龍爪権現の姿を追い乍ら、併せてそのような興味ある記事を、少し紹介してみたいと思う。
筆者瀧長門正正秀は、龍爪神官の祖と目される。樽の権兵衛から数えて七代目の神官で、文化13年に出生し、明治15年1月11日に没している。
因みに龍爪権現神官には六家あり、その人々は吉原、平山、樽、清地、布沢(ここに二戸あり)と、龍爪山をとりまく麓の村々に居住していた。そしてこの六家の人々が、年毎に鍵取り役(主役)となって、その年を取りしきって行ったのである。所謂輪番制であった。
この万記録の筆者長門正は、平山瀧家に生をうけ、その七代目を継いだ人である。時あたかも幕末から明治維新と、激動の時代であった。しかし明治改元前後にその職を退いており、万記録の記事は安政6年まで綴られている。
それではその中から、いくつか拾い出して見て行く事にしよう
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社 名 ・ 祭 神
○当社龍爪山穂積権現祭神、大己貴命・少彦名命。拝殿には若宮八幡、地主権現二神勧請仕り候。
未社、金山権現、七社山神、大天狗、小天狗、稲荷明神。
先ず社名の「穂積」という語について考えてみると、この言葉は比較的新しく、徳川期もずっと明治に近く、吉田神道の影響のもとに、生れたものと考えられる。「駿河記」「駿河国新風土記」、或いは「駿河志料」といった書物にも、その名称は見当らない。「龍爪山大権現」といった名称だけである。只「駿河国新風土記」に、「奥の院というのは大名持命(大己貴命)を祭りしという」とある。
この習合の神大己貴命から、五穀豊穣を考え、「穂積」という社名を導いたものであろう。因みに修験の山で大己貴命の神を祭らない山はないといっても過言ではない。この大己貴命から、相神として少彦名命を立てたものであろう。
元来大己貴命は、出雲神話に出て来る神である。素 戔 鳴 命 の子とも五、六世の孫とも言われ、あの因幡の白兎を助けた、大国主命の事である。この大国主命即ち「大国様」は、また「大黒様」と混淆し、七福神の一神となっている。
この二神の意味を云うならば、諸説があるというものの、「オオナムチ」の「オオ」は「大きい」であり、「ナ」は「土地」とか「国」とかの意味。「ムチ」は「尊い人」という事である。いうならばそのまま「大国主」という意味になる。
一方「スクナヒコナ」の意味は、「スク」は「小」であり、「ナ」はやはり「土地」とか「国」とかをあらわす語。「ヒコ」は「日の子」という事で、これまた「尊い人」という意味になる。
即ち、大国主命が「大国の主」であれば、少彦名命は「小国の主」という事になる。この「大己貴」「少彦名」の二神は、常に並び称せられる神で、神格を大小の両面から見たものであろう、ともいわれている。
古事記には、「大国主の神、出雲の御大の御前に坐す時、波の穂より、天の羅摩(草の実の莢)の船に乗りて、鵝の皮を内剥
ぎ々剥ぎ衣服として帰り来る神有り。云々」と書かれている。この神が少彦名命である。二神が力を合せて、出雲の国を治められたのである。
この出雲系の神は、海上を「帰り来る神」といわれているが、その神が龍爪山上の「亀石」の上に祀られたとするならば、それはまた大変古い、民俗宗教の形態といわねばならない。
話が大分万記録から外れてしまった。それでは元へ戻して、先へ進むことにする。
拝殿に勧請された地主権現は、先に述べた如く樽の権兵衛その人である。霊山開創にはしばしば地主神が猟師として登場するが、龍爪権現の場合は、その逆のケースである。けれどもそこに、共通したものを認める事が出来ようか。
さて末社は5社記されているが、末社にはそれぞれ持主があって、吉原瀧家を除く5家で分けている。金山権現は平山瀧家の持ち宮であって、権兵衛持参の鉄砲を祀ってあるとする。この金山権現はその所在する位置の事で、隣村の炭焼村と何度か紛争をおこしている。大天狗、小天狗については、龍爪伝説にしばしば天狗が登場するが、末社に於いて祀っていたのである。勿論伝説とは関係はない。
大天狗は普通の天狗、小天狗は烏天狗と云われている。修験道と深い関係にあるのである
。
釣 鐘 ・ 鐘 楼
次に釣鐘の記録を見よう。釣鐘は梵鐘と云われるもので、この梵鐘や鰐口といった仏具は、神仏分離以前の神社には、別に珍しいものではなかった。
○御山釣鐘大キサ、差渡シ壱尺八寸弐分。
寛政十戌午年春
施主
押切原村
高橋村
同
同
大工職
遠州森町
当国大谷村
鋳物師
権太郎
藤助
幸右ェ門
喜兵衛
山田七郎左ェ衛
田中助右ェ門
と出ている。差し渡し壱尺八寸弐分というから、かなりの梵鐘が、押切原村、高橋村(現在はいずれも清水市)両村の4名の人々によって、寄進されたわけである。寛政10年といえば、1798年であるから、今から数えて186年前の事である。
大 工 職の遠州森町山田七郎左ェ門といえば、有名な鋳物師の棟簗である。徳川家康から、「駿遠両国鋳物師総大 工 職」の名号をあたえられた名門である。江戸時代を通して数多くのすぐれた名品を鋳造している。
その門流の大谷在住の鋳物師田中助左ェ門が、大工職の監理のもとに心をこめて鋳造した、その梵鐘が龍爪山へ献納されたのである。
○鐘楼堂大キサ
是ハ天保11子年に造立
と簡単に記されている。鐘楼堂大キサとなっているが、その実際の大きさの記録はない。この鐘楼は、先の梵鐘が上ってから、42年目に造られたものである。
いずれにしてもこの鐘楼と釣鐘は、明治の神仏分離令によって取り払われてしまった。大工職が名を連ねた梵鐘は、当村の村役人によって銅の目方で売り払われ、鐘楼は手に掛けて取り壊されたという。これは当時の事を知る古老の話である
。
丁 石 の こ と
この記事は先の「龍爪山旧道と丁石について」と全く重複するので、簡単に記すことにする。
○御山御坂丁印棒石36本寄進ハ安永9年子冬、瀬名村 世話人中川雄右ェ門。
この万記録の記事も、己に紹介したものである。この丁石は現在も、数は減ってはいるものの、林中を辿る山径の必ず右側に、厳として立っている。瀬名村から寄進されたものであるが、劃一的にしっかりした柱型の石で作られている。書体もいいし彫も深い。そして必ず三字に彫られている。例えば1ケタの数は「七丁目」という様に、「目」が入り。
しゆじ
2ケタは「廿一丁」という様に「目」が彫られていない。勿論「種字」等はない。これはもう丁石卒塔婆といった原点は、徳川も己に中期を過ぎて、(安永9年は1780年)忘れ去られているのであろう
。
因みにこの丁石の参道は、安政6年(1859)に修復されている。記録は次の通りである。
○龍爪道作リノ事。安政6未9月右三ケ村一同談事ノ上、東道筋通リ並木杉23本、代金五両ニ(テ)瀬名水無シノ仁(人)ニ売リ、其ノ内ニテ金四両弐分、御神坂道繕(イ)ニ懸ケ、猶又金壱両□手前出金イタシ候テ、合金五両二分□垢離取リ場ヨリ三十五町ノ間、くろくわノ職人ヲ掛ケ、道繕(イ)申シ候。
合123人手間相懸リ候ト云ウ事。
このようにくろくわの職人(専門の土木作業者)に依嘱して、安政6年といえば己に幕末に近い、大々的に修理されたのである
。
序でながら、現在の龍爪参道について一言するならば、現在の道は明治初年の龍爪神官高田宣和─6名の旧神官は神仏分離令によってすべて辞職していた─の門人、久保田oの発起により、明治の中葉に作られたものである。その時提出された文書は次の如きものである。
「龍爪山新道工事目論見帳、明治20年3月15日梅ケ谷村久保田o・静岡県知事関口隆吉殿。」
として詳しい設計図、予算等が書きこまれていた。
新道にも平山部落内の1の鳥居から─平山農協前─1里何丁という、一町毎の道標を立てたが、この道標は「北村」という、石工の名を刻んだ小形のものであったが、現在はその全部が散逸して参道には残っていない。平山農協前にあった1の鳥居と、その傍にあった石の常夜灯は、終戦後しばらくして登山口の三本桜の下へ移された。
この新道は山の中腹を、傾斜を抜いて続いて居り、時代の要求に応じて作られたものである。しかしその反面権現への信仰の道といったおもかげは、影をうすめてしまったのである。
序でに、新道丁石を寄贈した北村氏であるが、この北村氏は、南沼上在住の石工であった。弘化4年文珠山頂の石龕を作ったのは、この北村氏の先祖である。又、慶長年間駿府城の石垣の石を長尾川流域で切った人も、この北村氏の先祖である
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石 灯 籠 ・ 水 鉢
この項では直接神仏習合には関係ないが、山内の石造物について書いてみたい。
○御本社石灯籠 文化7年3月奉納寄進
相州鎌倉郡中田村 小山伊兵衛、青木庄左ェ門。
現在この石灯籠は、ひっそりと旧本社址に一対立っている。立っているというより、辛うじて往時の優雅な形態をしのばせている、といった方が適切であろうか。しかし寄進者の名前ははっきり読みとる事が出来る。相州鎌倉中田村の2名の篤信の人が、よくぞはるばる献納したものである。
この立っている場所は、旧本社の祉である。現在跡地となっている場所は、昭和9年に建てられた本社の跡で、昔の石経塚のあった所である。旧本社の址はその段より更に上、薬師岳への登り口にある。その道傍にひっそりと立っている。
明治26年東京神田精行舎印行の、龍爪山穂積神社境内全図によれば、そこの平に一段下がって拝殿があり、低い数段の石段に続いてすぐに本社が立っていた。その本社の前左右に、この石灯籠は据えられていたのである。この石灯籠によって、旧本社の位置と結構をしのぶ事が出来る。そして本社の背後すぐの林中の岩石の上に、石祠の本宮がすわっていた。この岩石と石祠は、現在は見当らないとも云われている。
扨て龍爪旧道の入口、垢離取り場の岸に立っていた石碑の文の、「従 是龍爪山拝殿迄36丁。」というのは、この拝殿をさしていったものと思われる。戦後ハイカーの焚火の不始末によって焼失した所謂拝殿は、昔は祈祷所といっていた。
○龍爪山水鉢の事。嘉永3戌年3月12日奉納
右作料渡シニ仕リ金壱分二朱ト五百文。且又水鉢登山人足是モ渡シニイタシ、金弐分ニテ渡シ、戌3月12日奉納。
この水鉢は現在見当らない。例の東京精行舎印行の、穂積神社境内全図には、2ケ所の水舎が描かれている。そこに置かれていたものであろう。現在ある大型の、鶴亀、松竹梅の彫られている水鉢は、昭和初年に上山奉納されたものである
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その他の記録
1、 龍 爪 山 秣 場 争 論
「龍爪山開創」の項に於いてすこし触れたが、龍爪山中に広がる龍爪山秣場の諍論─以下諍を争と書く─の記録を、見て行く事にしよう。この争論は元禄2年に第一回の裁許(判決)が下りている。
竜爪秣場絵図部分元禄ニ年
その後明治まで何回かの争論があったが、天保12年に始まる出入りは、元禄度と同じく幕府評定所への訴えとなり、弘化3年9月に判決がいい渡された。それでは簡単にその記録を追ってみよう。
「○龍爪山御絵図面御裏書御証文ハ、元禄2年己巳12月出来申候ト云ウ。
其時入郷村々山元抱エノ古林ノ立木大分伐取リ候ニ付キ、夫ヨリ訴エ言出入ニ相成リ、其ノ節右御絵図面出来、入郷27ケ村出入シ、抜村12ケ村シメテ39村入郷。」
龍爪山秣場(入会山)は、文珠、薬師の二山を主峰とする龍爪山塊の、東西を南下する尾根に囲まれた、内側に広がっていた。即ち瀬名、長尾山境いから柏尾峠を過ぎ、尾根をずっと北上して龍爪神社。更に薬師岳、文珠岳へ登り。こんどは西側の峰通りを下って、南沼上境の上坂峠まで。静岡、清水の街角から望まれる、両方の尾根の南端の部分を除いた、殆んどすべての山域に散在していた。
この山中は民有地と、古林と、秣場とに分れていた。民有地は文字通りに水帳(検地帳)に載る個人名義の土地、古林とは地元3ケ村(平山、長尾、北沼上)管理の山、秣場が39ケ村の入会山であったのである。
この入会山は札山であって、山札がないと入山する事は出来なかった。札は毎年地元3ケ村で作り、入会39ケ村へ分けられたのである。各村には札数が決って居り、大村は多く、小村は少なかった。尚、歩(人)札と馬札があった。この札料(入山
やまてせん まい
料)は、山 手 銭、或いは山手米といわれ、元禄年間の取り決めによれば、しめて銭三十六貫文と米約二十俵であった。この山手銭米は、入会39ケ村から、地元3ケ村へ納入され、地元村は所定の手数料をとり残りは地頭へ納入したのである。
元禄2年判決の裁判は、入郷(入会)の村々27ケ村が(39ケ村のうち12ケ村は事件に無関係)古林の杉檜、数百本伐り取った事に端を発した。
事件は現在の最高裁に当る、幕府評定所へ訴えられた。幕府は見分の役人を派遣し、その役人が関係の村々の村役人を、現場証人として案内させ、実地に検分して歩いたのである。現在もその時の道が、見分道として残っている。
判決は畳三畳程の大きさの絵図面となりその裏に、「諍論裁許条々」と、判決文が書かれている。
その末尾は己にTの龍爪山開創に述べた如くである。即ち、関係27ヶ村の庄屋1名ずつ入牢申しつけられ、村高百石について一貫文ずつの過料を科せられた。
この元禄2年の絵図面と裁許文が、その後の争論判決の基準となって行く。
次に
「○其ノ後明和3年9月争論起リ候ハ、入会山□ヘ毒 荏多分生立チ出シ候ニ付、既ニ出入ニモ相成ルベキ□処へ、扱人立
入り、柳新田村伊左ェ門、西脇村佐兵衛、西嶋村孫四郎、取扱イ候趣ハ、山手米銭ノ内、半納山元納候様究メ相済候テ、其ノ後山元ニテ、米銭半納致シ来リ候。
今度、天保12丑年閏正月24日、入郷村ノ内瀬名村ノ者共、大勢ニテ大銘持参致シ、山元長尾村百姓抱エノ古林内へ入
込ミ立木数多伐リ取リ、夫ヨリ争論出入リト相成リ、寺社御奉行戸田日向守様御月番ノ□願ヲ上ゲ、御吟味ノ上済ロニ
相成リ候処、又 候再論ト相□論所御見分御役人ハ、森惣蔵様、桑原仙□様右御両人様上下ニテ56人□、御入来遊バサレ候□、瀬名川村並ビニ北沼上村ニ御旅宿遊バサレ居リ□。
弘化2已11月凡ソ20日程、居ラレ候テ、論所御見分遊バサレ、御引取遊バサレ候。其ノ後江戸表へ御呼出シニ成リ
御吟味ノ上、又々再御見分ト相成リ、又 候御見分、御役人様、弘化3丙午年4月5日御着、瀬名村中川雄右ェ門、同光鏡院、中川東太夫三□ヘ御旅宿遊バサレ居リ候。
○論所御見分御役人様方ヨリ、龍爪社人中残ラズ御呼ビ出シ成ラレ候テ、相尋ネ候儀ハ、今度山論ニ付、龍爪社□何ケ願ノ筋有無ノ御尋ネ御座候処、龍爪社人ニ於イテ、一向何モ願イ度キ筋、毛頭御座無キ趣申上ゲ候処、御請印形差上ゲ候。文面ハ左ノ通リ、
身分ノ事ヲ書上ゲ、並ニ持高ヲ書上グ。手前年名並ニ家内ノ人数、内男何人、女何人。
○右願ノ筋ハ何モ御座無ク候趣ノ文面書キ上ゲ印形仕リ、差上ゲ候。当年神主役ハ手前ニテ候間、名前第一先ニ書上ゲ申候。時ハ弘化3年丙午閏5月□□ニ御届ケ申上ゲ候テ、23日御呼出シ御座候。然ル処右ノ趣、領主御役所ヘモ念ノ為御届申上ゲ置キ候。社中惣代ニテ、手前並ニ清地伊予両人ニテ御届ケ申上ゲ置キ候。宮ケ崎御役所へ。」
元禄2年の判決より77年目、明和3年にやはり争論が起った。それは入会山へ多くの「毒荏」が生い立ったと書かれている。
竜爪山秣場部見分案内図弘化三年
毒荏とはあぶら桐の事で、この実から桐油がとれ、燈明用に灯されたのである。菜種油の代用として、良質で高価なものであった。文化13年の換算によれば、米一俵と毒荏一俵とはほぼ釣り合い、毒荏の方がやや高値であった。
この毒荏が入会山に多く生え立ち、(実際には地元の村人達によって植えられた)それを地元民が収入の糧とした事によって、入郷の村々から強い非難反対の声が興ったのである。それが明和3年の争論であった。
幸いこの事件は出入り(訴訟)とならず、扱人として柳新田村伊左ェ門、西脇村佐兵衛、西嶋村の孫四郎という3名の人が仲裁に入り、話し合いで事を治めたのである。その内容は今迄入郷の村々で出していた山手銭、山手米の半分を、地元3ケ村で受け持つという事であった。その代り毒荏の採種権は認められた形となり、一方入郷の村々は負担金の半額で、従来の権利を行使する事となった。
更に天保12年の争論は、明和3年の紛争から丁度76年目に当り、この時は瀬名
村の人々が、「大勢にて大銘持参致し、山元長尾村百姓抱エノ古林へ入込ミ、立木
あまた
数多伐リ取リ、夫ヨリ争論出入リト相成リ。」ということで、瀬名村の人々が生えている用材になるような太い立木を、多数伐り取った事から始まったのである。
この時の紛争は、前回の明和3年から76年、元禄の裁定からは153年と、長年月を経過していて、己に山の様相が大分変っていた。秣場と古林との境界が、不鮮明になっていたのである。
うけ
その時の請証文の文面に従えば、「秣場出入御吟味ノ処、地所ニ拘リ御決メ難ク候ニ付、云々」、とある。何回か役人が江戸より下向し、再三再四の見分となった。複雑に入りくんだ深い山中の見分は、嘸や難儀であったろうと推察される。
見分の仕事は、元禄度の絵図面による秣場の境界線の確認であった。或いは再決定といってもいいかも知れない。何本も杭を打って、厳重に線引きして行った。しかしその後検地を受けて、水帳にのった地所は除かれた。
文珠岳頂上に安置された、文殊菩薩の石龕の台石に、「龍爪岳下ノ民有秣場ノ地、訟久シクシテ決セズ、弘化丙午秋、官境界
ヲ
分ス。(原漢文)」と、地頭松平丹後守の銘文が刻まれている。この龍爪山秣場の全域は、すっぽりと小島藩領の中に入っているのである。
この争論による龍爪山秣場の見分が、実は文珠岳山頂の文殊菩薩安置の機縁となったのである。その事は又項を改めることとして、この度の請証文は大体次の如きものであった。
秣場の境界をはっきりさせたので、入郷の村々はこの秣場の中で、元禄度に決められた事柄を、堅く守って違犯なきように、という主旨のものであった。元禄の判決のように、はっきり勝訴敗訴とはならなかった。それは今回の入郷村の立木の伐り取りと、地元村の秣場内での毒荏の栽培とを、相殺したものであろう
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2、 黒 船 騒 動
永い間の鎖国になれて、太平の眠りに浸っていた日本人にとって、幕末期の黒船の渡来は、誠に晴天の霹靂であった。その驚きは如何ばかりであったろうか、想像に難くない。しかしそれとても、幕府上層部、為政者には己に早くからわかっていた事ではあった。
それでは万記録に記された記録を、見て行く事にしよう。
○北アメリカ蒸汽船渡来ニ付、見取ノ事。
嘉永6年癸丑6月3日、相州浦賀沖へ渡来。此時モ御上ニテハ、所々浦々御固メ遊バサレ候。村々へ壱人宛江戸へ急
ぶにん
夫人当リ来リ候ニ付、当村ニテハ惣□□江戸夫人(入夫)ニ差シ遣ス。○船ノ長サ五十七間、巾三十七間、高サ三丈、帆柱ノ長サ十四丈ト云ウ。
これはアメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが、最初に来航した時のことである。国の内外の情勢が急にせわしくなり、当平山村へも急遽、江戸への人夫が1人割当てられて来た。黒船の大きさが、噂で伝わって来た。
○又異国船渡来ノ事 嘉永7年寅正月12日、右御回状参リ左ノ通リ、
異国船打渡リ候ニ付、鉄砲所持ノ者玉ぐすり用意致シ居リ申スベシ。猶西嶋村へ御固メノ儀ハ、追テ触出シ申スベク候以上。
此の回状はベリー2回目の来航の時の事である。ペリーは約束通り、嘉永7年の正月早々にやって来た。幕府は狼狽し対応に苦慮したが、3月3日には日米和親条約が締結された。正月12日という回状の日付は、ペリー艦隊の江戸湾進入よりも4日早い。
「鉄炮所持ノ者」というのは、小島藩領内の山中の村々で、鉄砲所持人として登録されている者のことである。小島藩の鉄砲所持者名簿は、宝暦10年以来の名簿しかなかった。それを急遽天保14年に再調査して、無断で持っているものの名前まで書き上げさせ、所持者の印形をとった。
1万石の微小藩である小島藩は、いざという時、この鉄砲所持者を戦力に組み入れようと、考えていたのである。その為にこれ等の人を集めて、軍事訓練を行っていた。鉄砲稽古人というのがそれである。
一般に鉄砲は玉の重さで表現していた。平山村の場合は、二匁五分が主であり、猪鹿おどしの鉄砲であった。そのように届出していたわけで、銃そのものに変りはない。鉄砲所持には運上(税金)がかかり、猪鹿おどしは低く、猟師の生業用は高かった。又二匁五分より、三匁の方が高かったのである。序でに平山村の鉄砲所持者であるが、宝暦10年に登録されていた者は12名であったが、天保14年の調査では25名に増加していた。
○又23日ノ御回状左ノ通リ、
右異国船此ノ度浦賀表へ到着候間、御触コレ有リ候。右ニ付当時半蔵門御勤中ニ付、同所へ御詰コレ有リ候間、夫人出府ノ儀ハ山中村々ニテ、鉄炮稽古人20人、府辺村々ニテ夫人50人急ギ出府仰セ付ケ被レ候侭、人員割合ノ通リ遅滞無ク、此書付届キ次第村役人差シ添エ、御用場迄早々召連レ罷リ出ズ可ク候。以上。
猶以テ此度出府ニ付、差添エ村役人儀ハ、中嶋村ニテ一人、川合村ニテ一人、南村ニテ一人申付候侭、右人数ノ内へ相加ワリ、出府人共旅用迄致シ、早々召連レ出ラルベク候。以上。
右ノ通リ御回文参リ候。嘉永7年寅正月23日。
これは厳しい通達であった。この度異国船が浦賀へやって来たので、幕府から自領の海岸を防備せよという触れがあった。それについて藩主は今半蔵門に御勤め中で留守であるが、次の如く仰せ付けられた。として山中の村々から鉄砲隊員20名、駿府近辺の村々から人夫50人、村役人が費用まで用意して、早々に引率して出頭せよというのである。
費用を村方で負担とはきつい達しであったが、小島藩の財政が如何に苦しかったかが想像できる。尚山中の村々にだけ鉄砲所持者がいるというのは、駿府近郊の村々では、その所持が禁止されていたからである。
ここで中央の幕府から回って来た、治安維持の通達が記されているので、それを掲げてみよう。
又23日御回状ノ事左ノ通リ、松平和泉守様御渡シ候書付写シ。
異国船近海へ渡来ノ節、右国□領□知行コレ有□之在町、取リ締リノ役ハ、心得モコレ有ルベク候得共、万一悪徒共立チ回リ申スベキモ斗リ難ク候ノ間、召捕リ方ナド別シテ厳敷申シ付ケ置クベク候。若シ捕リ押サエ兼ネ候儀モコレ有リ候ハバ、切リ捨テ又ハ打チ殺シ候共、苦シカラズ候。
右ノ通リ御料、私領、寺社領共近国ノ分、洩レザル様相触レラルベク候。
寅正月
右ノ趣御触レコレ有リ候ノ間、其旨村々相心得申スベク候。以上。
時節柄悪人共が立ち回り、若し逮捕しかねるような場合には、切り捨てても又撃ち殺しても構はない、という厳しい通達である。
さて先程の70名の夫人であるが、結局府中で待機しただけで引揚げた。実際に浜方を固めたのは、その前の正月13日から16日迄であった。
○右西嶋村へ御固メノ儀ハ、当正月13日ヨリ16日ノ夜迄、御固メ遊バサレ候。退帆ノ様子ニテ引取リ申シ候事。
と記されている。
ここに一つ奇特な話が載せられている。それを紹介すると、
○浜方御領分西嶋村御固メ御人数差シ出サレ候砌、当村勇右エ門儀、新規張置候鉄炮持参ニテ、右御固メ御人数ノ内、御先手へ加リ罷リ出候ニ付、則チ御聴ニ相達シ候処、奇特ノ至ニ思シ召サレ、御褒美トシテ金三両也下シ置カレ候事。嘉永7年寅正月。
ここに出てくる勇右エ門は、名前の如く誠に勇ましい人物であった。村へ新規に備え付けた鉄砲を持参して、警備軍の最前線へ自ら志願して出て行ったのである。
藩主松平丹後守の聴聞に達し、奇特の至りとして、金三両の褒美を頂戴したのであった。
次の記録を見るに、
○今度異国船渡来ニ付、天下太平、国土安全、並ビニ領主殿様御武運長久御祈祷、社人中仰セ付ラレ候ニ付、寅正月14日ヨリ18日迄登山ニテ、社人中祈願仕リ候。同二十□日御札献納申候。右御祈祷料三百疋社人中へ下サレ候。寅正月21日。
嘉永7年の黒船騒動に際して、領主の武運長久を、天下太平、国土安全と共に祈願しているのでる。明治から昭和20年8月
の終戦まで、いくさ神、弾丸除け神としての穂積神社の歴史を想う時、誠に興味深い記録であるといわねばならぬ。