3. 石 経
石 経 の 段
大正2年に編纂された西奈村誌に、「龍爪山志ぐれが嶽、山の神権現の記録に云」として、次の如き文が載せられている。これはTの「龍爪山開創のこと」であげた「龍爪山御本杜造営之覚帳」の文と、殆んど同文であるが、煩をいとわず掲げると、
「前略、庵原郡樽の上村多き甚右衛門子に、兄佐次右衛門、弟に権兵衛といふ者あり。かの権兵衛52歳の年─慶長14
年─龍爪山へ登り、権現おしみの彼のけんぞく、鹿のしし(「猪のしし」と云った類の言葉)16匹群れて遊び居る中にて、額白く、背白く、同じく尻尾白房の如し。それを鉄砲にて打とむる。夫に付き俄にわずらひ乱気して、彼の権兵衛心乱れ、3年わずらふ事我がわざにあらず。……彼の権兵衛両親もかなしみ思ひ、1日に百度の垢離をあげ、夜こり昼こり取って、諸神へ是非右の本心にと祈願すれば、本心に立ちもどり、通力自在の不思議の方便、この話樽の上村近くの凡夫にも、われらがこの智恵をば知らしむ。しかるに是を聞く者感嘆す。
夫より我が信願を以って「石きょう」へ家を造り居、1ケ年1度3月16日に祭り……云々。後略」
明治26年東京神田精行舎印行の
「穂積神社境内全図」
この文は先に述べた如く、「龍爪山御本杜造営之覚帳」と殆んど同文で、それを土台にして書かれたものである事がわかる。龍爪開山説話はこのように積み重ねられて、次第にまとまった完成されたものに、なって行った。
ただこの文は、神道第一主義の時代に書かれたものであるから、仏教的な言葉は、直接に使用されていない。又注意して外されている。しかしその片鱗がない事もないのである。これから取り扱う「石きょう」は勿論であるが、「凡夫」などの語は仏教語である。更にこの文の後の方に、
「是日本開闢より以来、せつなの間三千界をめぐる神通力のふしぎなり云々。」と、権兵衛を讃えているが、この三千界とは、「三千大千世界」の事で、須弥山を中心とした仏教の世界観(大宇宙観)である。
さてこの文中に「石きょう」「家を作り」という言葉が出てくるが、この石きょうについて考えてみたいと思うのである。もう一つ文章を見よう。やはり西奈村史に載る、「龍爪山時雨ケ峯穂積大社鉄砲祭縁起」には、
「(樽の権兵衛)此山に登り太 鋪宮柱を建て、数々の植木を仕立、祭神大己貴命、相神には少彦名命を奉請、又或時「石形」
の段には、石形明神を奉祀、常に之 的を打楽む事少なからず。正保元年甲申年9月16日、地主神並びに若宮八幡宮を勧請し奉る。又石形へ居家を作り、数多の末杜を守る。権兵衛持参の鉄砲は金山明神と祭る。云々」
この縁起の文では、「石形」と書いてある。又別に「石行」と書いて、「いつぎょう」と読ませている文章もある。
さてこの文中に、「常にこの的を打楽しむ」とは、どういう事であろうか。明治26年東京神田精行舎印行の「穂積神社境内全図」は、実に精巧な銅版画であって、細部まで写実的に描かれているが、それによると石きょうの段に於いて、鉄砲祭りをした事がうかがえる。
この「鉄砲祭縁起」は、明治の中頃書かれたものと推定されるが、或いは当時己に経石が露出していて、しかしまさかそれを投げて、的にしたわけでもあるまいと思う
。
一字一石経
ここに出てくる「石きょう」或いは「石形」又は「石行」は、勿論「石経」の事である。「石経」とは普通「一字一石経」というもので、碁石大か、ややそれよりも大き目の石に、一石に一字ずつの経文を書いたものである。また数は少ないが一石多字もある。それを納めて経塚とした。「石経の段」とは、経塚のある山の平という事である。
龍爪経石(一石多字経)
事実この経石は、廃虚となった本杜趾の地から、数は少ないが現在も出ている。長い間風雨にさらされた結果、お経の文字は殆んど消えて見えないが、或いは光線の具合によって、読みとる事ができる。昔は息を吹きかけたり、水に濡らしたりすると、文字が浮き上ったといわれた。
昭和7年初冬の大風雨により、境内の大木百数十本が倒れ、本社もまた跡形もなく倒壊した。そして2年後昭和9年に、本社地を更に引き下げ、現在の本社地へ、即ち石経の段へ建築する事になったのである。その基礎の地ならしの折、碁石大のおびただしい黒石が出土した。当時その仕事に携ったのは、氏子である山麓の村々の人達であったが、それが何であるか不明だった。わからぬままに地ならししたと語っている。或いは子供達が、試みにこの石を谷に向って投げてみると、それは風を切ってよく飛んだ。皆んな面白がって投げた、と話している。
又今己に老境に近い人々が、子供の時分龍爪山へ登り、よくこの小石をお守りに拾ったとか、財布の中へ入れたとか、話して呉れた。
勿論この経塚は、いつ頃誰によって作られたか不明である。又納められた経文が、何経であったかもわかっていない。それらは今後の研究に─科学的測定等も含めて─大いに期待したい処である。
経塚に納経する本来の意味は、釈迦入滅56億7千万年の後に、弥勒菩薩が兜率天からこの世に下生して三度の説法をなし─
りうげさえ
龍華三会という─衆生を救うという信仰のもとに、その時まで経文を霊地に保存する、という事がその目的である。そして経塚の上には、その趣旨を刻んだ石塔を、必ず建てたものである。この龍爪経塚の上にも、恐らくその碑は立っていたものと思われる。これは或いは明治元年の神仏分離によって、取り払われたものであろうか。それともそれ以前に、己に失われてしまったのであろうか。
この弥勒下生の信仰のもとに作られた経塚は、後にはある特定の人の供養の為に、なされる事もあったが、龍爪山の場合には、この地を長く霊地霊場として崇める為に、作られたものであろう。
その作製された年代を測定してみたいと書いたが、その年代は想像するに、恐らく室町期を下るまいと思われる。或いは更に古く、平安時代にまで遡るかも知れない。その可能性は頗る大きい。龍爪山の信仰は、非常に古くから己に存在していたのである。吉田東伍著大日本地名辞書にも、龍爪山は山神「龍蔵権現」を祀った、古くからの山岳宗教の拠点と、紹介されている。ついでながら、龍爪山という山名は、この龍蔵権現に由来するという説もあるのである。