現在龍爪山の南麓平山部落の奥、三本桜の傍にある龍爪茶屋の前から、折れ返しては登って行く龍爪登山道は、そのとりつき
さく
こり
の部分は、龍爪林道開鑿にともない、あまり歩かれなくなった。龍爪茶屋を通り過ぎ、林道を垢離取り場の橋まで進み、反転して山腹へ登り、先程の登山道と交差する地点で、登山道にとりついて登って行くケースが多い。
 しかし龍爪権現への旧道は、現在の登山道とは全く異っている。垢離取り橋の手前から、真っ直ぐ入って小径を登り、いわゆる垢離取り場の岸に出る。そこで流れを渡り─昔はここで垢離を取って入山の準備をした。─又少し登って、再び沢を渡り、雑木林の中を登って行くのである。ここらあたり昔「くろくわ」の職人をかけて作った、石段の跡が残っている。
 この垢離取り場の左岸、沢を渡る地点に、石の碑が立っていた。それには次のように刻まれていた。
これより
ときに
 「従 是龍爪山拝殿迄三十六丁。干時安永9年(1780年)庚子年。仲冬 吉辰建立 瀬名村。」この石碑は惜しくも何年かの台風で押し流され、川底に埋没してしまった。垢離取り場の渕も、直ぐ下に砂防ダムが出来て埋まってしまい、旧時の面影を全く残さない
旧道風景
旧道風景
山中の飛瀑
 中川雄太郎氏版画
山中の飛瀑 中川雄太郎氏版画
 さてそれからは左右の谷の水音を聞きながら、中央の尾根を登って行く。往時は一丁、二丁と丁石が立っていたわけであるが、現在は見当らない。甘酒こぼしの坂を登り切り、しばらくして七丁目の丁石が立っている。現存の最初の丁石で、ようやくお目に掛ったという気持ちである。八、九、十丁と過ぎて、いよいよ肝冷しの難処にかかる。俗にここを「きん冷し」と言う。登って行くと雑木に蔽われて、さして難処とも思えないが、左右はきり立った崖である。
 難処を上り切った溜まり場で一服する。小憩の後歩を進めると、道は尾根の北側を抜けて、十六、十七丁の丁石を過ぎる。十九丁の丁石は、昔から写真にも撮られたりして、人によく知られた碑であるが、現在は見当らない。この辺では龍爪新道がすぐ右下に、谷を隔てて続いている。そこを通る人達の声も間近に聞えて来る。この十九丁の地点から沢へ下って、すぐ新道へ出られるが、旧道は左手へ、尾根への坂を登って行く。ここに廿、廿三の丁石が立っている。廿一丁の丁石も林の中に落ちこんでいるという。
 暫くすると平らな尾根となる。この尾根の道はいつ歩いてみても、心落ち着く荘厳な感じのする道である。そのまま権現へ通ずる道といった感じである。この辺では新道はすぐ真下を通って居り、やがて旧道はそれへ合する事になる。新道が所謂水飲み場の沢を渡って、一曲りした上である。従来は、旧道はここから新道に合一して、上っていると考えられていた。しかしそうではなかった。暫くそのまま進み、左右の谷が狭った背道を過ぎた所で、旧道は再び左手の林の中へ入っていた。試みに道らしき所を登って行くと、思い掛けずも卅丁の丁石が、ひっそりと忘れられたように立っていた。この丁石の発見は感激であった。
 暫くして道はまた新道に出る。もう穂積神杜は指呼の間である。亭々たる老杉が何本も聳えているのが、すぐそこに見える。
 以上が龍爪古道の概観である。この道は歩いてみて、谷あり、尾根あり、岩場ありで、まことに古くからの信仰の道という感が深い。この道を通って、修験者も行者も登って行ったのである。いや四方の麓の村々から、大勢の信徒、善男善女が、踏み登った道でもある。云うなれば龍爪権現の懐に抱かれて、その真中を、ひたすら登って行く道であった。
 ひたすら登って行ったのは、謹直な信者や、願かけの人々ばかりではなかったと思う。時には、若人のエネルギーもロマン
も、山上目ざして、いきいきとにぎやかに、登って行った。龍爪権現はまたそのような民俗の、陽気な賑わいを悦ばれたと思
かがい
う。昭和になってからも戦前までは、穂積神杜の祭礼には、四方八方の麓の村々から大勢の人々が登って来た。大昔の「歌嬥」を思わせるような、賑わいが残っていた
古 参 拝 記
 文化5年(1808年)の3月17日、時の駿府加番北条相模守の臣池田安平が、龍爪山へ参詣したが、その時の道も勿論旧道であった。その参拝登山記を見てみよう。

よじ
まがり
さいかい
そばだち
しょうぎょう
そびえ
こみち
 「……攀登る山径険しく屈曲て崔 巍と 峙 縣崖外字   嶢と 聳 え、鳥道わずか壱人ならでは通ひがたく樹木
いんしん
ひる
こずへ
たきみなぎりおち
蔭 森と繁らひたり。夏は蛭てふ虫あまた 梢 より落る故、登る事難しと聞。嶺より飛 瀑 漲 落 て岩間を越す光景物凄
ながれ
およそ
やまぶき
いわつつじ
く、下流径を遮る事 凡 48処あり。此泉を打渡り分登れば左右の深谷に款 冬、岩 躑 躅、藤花など咲乱れ、奇
きんもうぢう
ながれ
禽 猛 禽の声聞へ、又 類 べき方もあらず。此日の祭礼は如何成故にや鉄砲祭りとて、大筒小筒玉薬を持登りて、処定め
かくおそろしき
おびただしき
みちせま
ず打出す。目当の角を建置たる所もあり。斯 恐 敷 高山に、此日は婦人迄も登山す。 夥 敷入なれば径 挾くして、
よく
ところ
こずへ
すが
行違ふ時避る 地 なし。側は千尋の谷なれば歩をはこぶも危くて、 梢 に抱り岩根に取付て行違ふ。雨は次第に降きほ
いこ
よじのぼ
ひ、疲労も増ぬれど休ふべき方もなく、立やすらひては攀 登る。漸く神楽堂に至りて見れば、笛太鼓打鳴し居たり。側
ここ
かれゐ
たべ
ともがら
かなまり
に板屋の庵あり。茲にて各々行廚を食ぬ。登山の輩 我も我もと彼の庵に休らふなれば、押合ひ込合て 椀 も下に置所な
ながむる
し。夫より又奥の院までわけ登る。檜原覆繁り深々と重なりたる雲の内なれば、何処を眺 望も只茫々として分ず、
かくて
ぬかづき
そびえ
たん
ここ
斯而権現の宮に額 突き、堂の後を望めば又空に 聳 たる峯あり、迷雲澹々と掩ひ、分登るべき径なし。茲は魔所なりとて人々元の麓に下る。……後略」
 大分誇張された表現になっていて、恐ろしい深山のように書かれている。文化5年といえば今(昭和59年)より176年前、或いは現在考えるよりはるかに嶮しい感じの山だったのであろうか。
 ともあれ「肝冷し」とおぼしきあたりの描写があり、或いは鉄砲祭りの事、又おびただしい参詣者の数など、興味のつきない一文である。ただ惜しまれるのは、当日は珍しい大雨の日になってしまった。雷鳴さえ鳴り出したと記している。若し晴天の好日だったら、安平はどのような文を遺したであろうか。惜しまれてならない。
 この文は「日毎の富士」という題の稀覯本の中に書かれてあり、同本は、現在静岡市南の「文化洞」(長竹竹雄氏)より刊行されている
ちょうぼとけ
 さてこの旧道に立っている丁石であるが、土地の人々はこれを 丁 仏 と呼んでいる。約三十間に一基立っていて、36本あったわけである。この事は「万記録」という龍爪神官瀧長門正の書いた記録の中にも、次のように記されている。
旧道にある丁石
旧道にある丁石
十九丁の丁石 (中川雄太郎氏版画)
十九丁の丁石 (中川雄太郎氏版画)

 「御山御坂丁印棒石36本寄進ハ安永9年子冬、瀬名村 世話人 中川雄右ェ門」

 安永9年といえば西暦1780年であるから、今から204年前の事である。この事は先に述べた垢離取り場の、板碑の刻銘のとおりである。尚世話人中川雄右ェ門は、当時の瀬名村の名主であり、著名な版画家で郷土史をものされた、今はなき中川雄太郎氏の御先祖である。
 瀬名村の寄進によって立てられた丁石であるが、現在はその何本かしか残っていない。どれが残っているかと云う事は、先に旧道の説明の時挙げたが、それを再記してみると、七丁、八丁、九丁、十丁、十六丁、十七丁、廿丁、廿三丁、卅丁。それに林中に転落しているのが報告された廿一丁、計10本だけである。後の26本はどうなったのか、今のところわからない。或は林の中に落下しているのか、上からの土砂で路傍に埋没しているのか。今後根気よく探索して行く必要がある。その事によって、更に発見される可能性は大きいと考える。
 又丁石から丁石への間隔であるが、一間隔およそ三十間弱と考えられる。正式に測定した訳ではないが、歩数を数えて大体を算定したものである。そうすると垢離取り場から拝殿まで、約2分の一里と云う事になる。歩いて見た感じも、そんな程度である。
ちょうぼとけ
 さてこの「丁石」は、「町石」とも書き「ちょういし」とも「ちょうせき」とも言われている。土地の人々が「 丁 仏 」と呼んでいることを紹介したが、まさしくその通りで、単なる道標や距離標ではない。金剛界曼茶羅の主要三十七尊になぞらえて、立てられたものと言われている。参道をその曼茶羅に見たてて、一尊一尊を、自己の成仏へのよるべとして、登って行く道である。
 丁石が単なる道程標でない事は、その立て方でわかると思う。距離標であれば、その距離だけの本数で足りる。垢離取り場から龍爪拝殿まで、約2分の一里である。普通一丁は六十間、一里は三十六丁であるから、2分の一里、即ち半里は十八丁である  とすれば18本で足りる訳である。にもかかわらず36という数を配してあるのは、そこに完成された法の世界を現出せんがためである。三十七尊に配して36本とは、1本足りない計算になるが、最後の1本は主尊である大日如来に、当てる考え方であろう。ここに於いては、龍爪権現の御本体そのものであろうか。
丁石
 この代表的な町石は、高野山の壇場から奥院御廟に至る間に立っている。天治元年(1124)秋の「鳥羽天皇高野御幸記」に、
そとば
「行程三十六町、毎町立卒塔婆、而其数三十七本、尋子細依金剛界三十七尊種字」(行程三十六町、毎町卒塔婆を
しゅじ
立つ、而して其の数37本、子細を尋ぬるに金剛界三十七尊種字を書くに依る)と記されている。(比叡山と高野山 景山春樹著)
しゅじ
 尚同書によれば、この壇場から奥院までの37本町石は、36本しか建立されていない、と記されている。三十七尊種字の種字とは、仏名を現わす一字の梵字の事であるが、三十七字目の種字は、両界の主尊たる大日如来そのものであるから、其の霊地の本尊そのものを当てているのであろう。
 文永2年(1265)元冦の役御祈念のために、亀山法皇みずから高野山に参詣されたが、その折

ふだ
 「かかる尊き道をすすみて登れることなればとかく、帝王既に当所の下乗の檄より、玉の御輿を下りさせ給ひ、町ごとに御持念拝礼ありて、玉歩をすすめさせ給へりとぞ。」(紀伊国名所図会、巻4、慈尊院の頃)と、法皇も御輿を降りられて、徒歩で1つずつ町石を拝礼され、山上へ登られたと記されている。(比叡山と高野山 景山春樹著より)

 尚、京都醍醐寺の下醍醐から上醍醐への道にも、36本の丁石が立っている。西国巡拝記(杉本苑子著、大法輪閣)には次の如く書かれている。

 「三十六丁といってもそれは、金剛界の三十七尊に配して丁石を立てたもので、実測は二十丁にすぎない。」

 筆者もこの上醍醐への道は二度程歩いた事がある。慶長3年、豊太閤豊臣秀吉が、所謂醍醐の花見を催した旧跡である。現在そのあたりは森閑としていて、花の影を見ないが、下醍醐一帯は春には、まさしく桜花の別世界であった。
 丁石が立っているのは、その外にも何ケ所か知られているが、最後に近郷にある丁石について、少し紹介してみよう。
 近くでは大内霊山寺(大内観音)の参道にあり、また焼津当目の、香集寺(虚空蔵山)へ登る道にも立っている。
 霊山寺の丁石は、しかし殆んど散佚してしまっている。旧丁石と新丁石とが見られるが、いずれも造立月日は定かでない。新丁石が2本(一丁目と二丁目)。旧丁石が一本存するのみと思われる。残りの丁石はどうなったのか、或いは林中へ転落しているもの等も、あるのであろうか。只旧丁石には地蔵菩薩とおぼしき尊像が彫られている。
 焼津の香集寺の場合も、新旧二つの丁石が立っている。新丁石は角柱形であり、川口清左ェ門、斎藤清左ェ門と施主名が刻まれている。年号は明和5年12月吉日。一、三、四の丁石がある。旧丁石は新丁石と、石質形態が全く異る板碑である。上を三角に削ってあり、年代等は不明である。二丁、四丁が残っている。
 霊山寺も香集寺も、他に古い石造物があり、これらの─例えば道祖神や、石経供養塔など─文化財に対して、専門的な考察が望まれる次第である。
 さてこの二ケ所に立っている丁石であるが、参道の距離の短い関係からか、36本という事でなしに、単に6本という数ではないかと思われるふしがある。丁石が完全に残っていない現在、確かな事は不明であるが、一里を六丁とする小里の数え方があり、それに合せたものではなかろうか、或いはもっと現実的に、正確な丁数を立ててあるのかも知れない。
 以上丁石の原義をたどり乍ら語って来た。やや固い記述になったが、丁石建立の根本の理念は、そこにあったのである。云うならば参道に曼茶羅を描く、神仏習合の世界であった。
 安永9年冬に、瀬名邑が名主中川雄右ェ門を世話人に、御山御坂丁石36本を寄進してから、ここに204年の歳月を経ている。瀬名千石という、今に変らぬ経済力があってこその善行であろうが、当時の瀬名村の人々の、龍爪権現に対する深い帰依、信心の程がうかがえる。それはしかし理屈抜きの、素朴な民俗的信仰心であったに相違ない。また人々にとっては、そこに立っているものは、むずかしい密教の教義とはあまり関係のない、山路をたどる参詣の人々に語りかけ、元気づけて呉れる、道しるべであったのであろう。
 ともあれ龍爪古道の丁石は、その距離といい、その形といい、近隣に稀な姿で立っている。古い面影をこれ程遺している参道は数少ない。かの上醍醐への山坂三十六丁にも、勝るとも劣らない古いたたずまいである。