の本地。各地の天王様と呼ばれる神社は、この牛頭天王より来る名称である。)などと呼ばれている神社の、社名の変更を命じたのである。龍爪権現もこの達によって、「穂積神社」と改称された。なお、由緒書きを提出させたのは、その神社の沿革を知るためと、社名変更などの典拠ともした。又天皇、或いは皇室に関係ある(仏名の)神社には、政府もその扱いを慎重にした。
このような神仏分離政策は、明治新政府の徳川幕府の政治にとって替る、最も中心的な政策の1つであった。そして神道を国教とし、神武創業復帰をスローガンに、王政復古、祭政一致の新政策を、強力に押し進めて行ったのである。
永い間の慣習を破る神仏分離は、当時の社会に多くの混乱や、摩擦を生じさせた。そしてそれは単に二教の分離にとどまらず、必然的に廃仏毀釈へと進んで行ったのである。その折に、幾多の貴重な文化財が失われて行った。それは惜しみにも余りある不幸な出来事であった。
龍爪権現もまたこの激動の中に、多くの変貌を余儀なくされたのである。Tの「龍爪山開創のこと」で触れた如く、明治7年には、今までの6名の祠官はすべて辞職した。神仏習合の別当色が濃かったのである。古老の話によれば、山内にはもと真言の寺院があったと云われている。旧祠官の後には、国学者の流れを汲む高田和宣が神官に任命された。社名も穂積神社となり、西奈・高部両村を氏子とする郷社に昇格した。この神官高田宣和によって、山内の習合色は払拭されたのである。
が強調されて行くのである。これには明治に於ける日清、日露の両戦役が、その傾向に拍車をかけ、更に大正期の第一次世界大戦、昭和になってからの満州事変、日中戦争、大東亜戦争と、いよいよエスカレートして行った。
龍爪神像
清水市伊佐布
月見里高雄蔵氏
山嶽宗教は常にこの荒ぶる神の一面があり、その一面が軍神と結びついた。但しこの厳めしい神影は、除災招福のための、降魔の相である事は勿論である。
このような神本来の性質の外に、尚いくつかの要因が考えられる。
その1つに鉄砲祭りがある。鉄砲祭りはいつ頃から行なわれているか、不明であるが、榊原長俊の駿河国誌(天明3年刊)にも己に載せられている。この国誌はその後の、駿河記や、駿国雑誌等の先駆をなした地誌である。榊原長俊は、宝暦4年と天明3年の2回、駿府加番を務めた幕府官僚である。宝暦4年といえば、延享から数年しか経って居らず、龍爪神官瀧紀伊が活躍していた時代である。その文を掲げると、
「毎年2月17日祭礼があり、鉄砲祭りと号す。近頃近郷の人賭鉄炮を放す。国衙の人も多く参詣す。云々」
とある。尚この鉄炮祭りも、始めは所かまわず撃ったようであるが、後からは的を作って撃つようになった。
この鉄砲祭りの起因は、やはり樽の権兵衛の話に関係あるものと思う。樽の権兵衛と称する龍爪神官の祖は、武田の落人としてこの山頂に落ち着き、持参の鉄砲をもって、猪や鹿を撃って暮らしていた。それによって生活の糧を得ていたのである。この事が権兵衛による龍爪山開創説話の背景となった。
元来この龍爪山系は、木の実や草の根等、動物の食物となるものも多く、又鹿の好物の笹なども豊富に自生して、姶好の猟場であった。自然麓の猟師達も多く集まって来た。この猟師達と、年に一度の権現の祭りとが結びついた。鉄砲祭りの原形はそのようなものであったのである。更に先程の開創説話―樽の権兵衛が白い鹿を鉄砲で撃ち、それが縁となって、後に龍爪山を開創したという、縁起話が出来上ると、一層鉄砲祭りに拍車をかけ、祭りは賑やかになって行った。
更に1つ、これは元亀・天正の昔、甲州の武田軍が、駿遠攻略の為に龍爪山を占領し、ゲリラ的前進基地として使用した。その際武田の軍兵達は、戦勝祈願と、武運長久の願いを権現に祈って出陣して行った。その事も軍神となる1つの要素となった。
以上のごとく、龍爪権現が軍神になる要因は、いくつかあるという事が出来る。これ等のことが複合し、重なり合って、軍神になって行ったのである。
軍神のルーツを探るという事で、大分より道をしたが、話を先に進めるならば、戦勝祈願・武運長久の祈願といっても、裏をかえせば、出征者が1日も早く、無事息災にて故郷へ帰ることが出来るようにという、出征者自身及びその家族の、切なる願いがこめられていた。当時は口に出しては言えなかったが、平和を希求して止まない、庶民の根強い願望が、そこにあった。穂積神社は、まさしくその心の支えとなっていたのである。
この軍神、玉除け信仰の外に、更に1つ龍爪権現には重要な御利益のある事を、つけ加えて置きたい。それは何かといえば、「心病の治癒」という事である。これは或いは大昔の、大己貴命に繋がる信仰かも知れないが、直接には瀧紀伊の霊験譚に起因するものと思われる。瀧紀伊即ち樽村の樵夫権兵衛にまつわる話は、己にTの「龍爪山開創のこと」で紹介したとおりである。終戦前までは、その病いの平癒を祈願して、人々は遠方からもやって来た。
更にここで、龍爪山開創説話について、少し補説して置きたい。私はこの説話の作製された年代を、少し下げすぎて考えているようであるが、それにはそれなりの理由があるのである。
その理由とは、龍爪山の古伝説や、徳川期に著述された各地誌―例えば駿国雑誌や、駿河志料等―に、いずれもそのような話
は伝わっていないという事である。古い龍爪伝説といえば、大般若経六百巻が空から降った話や、行翁の話など、或いは黒雲が
峰を蔽て、龍が爪を落したという話など、更に下って徳川期になれば、寛文の頃の由比桜野の薬師堂、玄慈坊の話、更に延享の頃の樵夫権兵衛の話といった類いである。これ以外に目ぼしい話はない。若し樽の権兵衛が、神使の白い鹿を鉄砲で撃って、それが機縁となって龍爪山を開いたという縁起話が、当時己に知られていたならば、必ずやそれは著述の中に、取りあげられていたと思うのである。
しかしむしろ反対に、駿国雑誌には「権現の神異は近頃の事にして、古くは有とも聞えず云々。」と書かれているし、駿河新風土記には、「此の神元禄の頃より異霊ありしとて、云々」と、記している。ともに古い昔のことではない、といっているのである。これ等の文が、そのまま説話がなかったという、証拠にはならないかも知れないが、それを類推するには充分と云えそうである。
この説話は徳川の中期以降、むしろ幕末に近く、更には明治へまたいで作られた、と考えられる。
それは各地の霊山、例えば越中の立山、伯耆の大山、九州の英彦山などの説話を参考にして、龍爪権現の神威を高めるために、作られたものであろう。
因みに霊山開創の説話には、前にも述べた如く類型がある。それはどのようなものかと云えば、その山の開創者である猟者(狩人)が、狩りに出て鹿、熊等の動物に遇い、それを弓矢で射立てると、その動物は忽ち金色燦然たる仏となり、その仏のお告げによって、霊山を開くという物語りである。龍爪山の場合は、始めは神罰によって病気になるが、3年後その神のお告げによって、開山するという話になっている。
猟人である山の開創者は、必ずまたその山の地主神でもある。瀧家の祖樽の権兵衛は、これまた龍爪山の地主神として祀られているのである。
因みに東照宮のある久能山にも、聖武天皇の御宇(701〜756)久 能という人が、山で狩りをして、光るものを射落してみると、それが金色の千手観音であった。それが機縁となって久能山を開いた、という開山説話がある。
昭和20年敗戦という、混乱の時を経て、再び龍爪権現も本来の御姿を現わし給うた、といっては当っていないだろうか。誰しもがかつての「五穀豊饒・万民和楽」の御神徳を、願って止まないと思うのである。この御神徳を、人間の手で再び決して曇らしてはならないと思う。
明治維新の神仏分離以来、百有余年。ここに龍爪権現の神仏習合の跡をたどってみる事も、又意義が深いと考える次第である。